見知らぬ楽園
俺は二回目のスヌーズを手探りで止め、重たい頭を起こしながらいつもの習性で小さな3インチの窓を覗き込む。
着信なし、メールなし。
違和感を欠伸で噛殺し脳内のカレンダーをチェックする。会議の開始時刻は10時から。起きてシャワーを浴びて15分、食事を取って惰性で朝のニュースをチェックする30分。身支度を整え家を出るまで15分、そして会場へは車よりもメトロの方が正確に早く着く。
逆算したらもう起きなければ間に合わない。それでも予定通りで会場に滑り込むのは5分前だろう。ホスト国なんだからもっと早く会場入りしてゲストを迎える準備をうんたらかんたら…頭に思い浮かべて、その必要はないんだったと大きく頭を掻いた。
俺は無常な顔した日常に立ち向かうべく立ち上がった。
大陸は広く大きく他国からは必然距離がある。地続きの兄弟であるマシューを除いては遠大な海に阻まれて移動には時間がかかる。勿論、地上移動が可能とはいえこの発達した現代、マシューだって自国からここへは航空機を使ってやってくる。
しかし幾ら発達した交通網とはいえ時間を超えることはできない。よってこの合衆国が舞台となる会議の場合全ての国が前泊組だ。
「おはよう、アルフレッド」
欧州で行われる会議では遅刻常習のフェリシアーノがにこやかにルートヴィッヒの隣で手を振るのはそういう訳だ。ルートヴィッヒはその声に反応して俺と自分の腕に嵌められた時計を見比べ、予定通りの5分前であることを確認すると挨拶だけを述べた。
場内の席は全て埋まり俺を残すのみとなっていたところだが時間に間に合っていれば誰からも咎められない。
G8に参加するのはその名の通り8カ国。俺から時計回りに円卓を大陸、欧州、アジアと地球を逆回転で囲む。隣の菊にも挨拶をし向き直って座ると向かいには笑顔のフランシスと対照的に表情の少ないアーサーが並び合ってなにやら書類を覗き込んでいる。
「おはよ、アル」
いつもの気さくな調子でフランシスがその柔らかい笑顔をこちらに向けるとようやく俺の登場に気付いたアーサーがちらりと視線をこちらに流す。常緑の瞳は無感動に瞬き、手の内を読ませないポーカーフェイス。
「おはよう、アルフレッド」
カタチだけの言葉を振り撒いてその意識はすぐにフランシスの許へ。ちくりとした違和感。喉元まで出そうになった無為な音をようやく飲み込んだ。
予定通りの会議の開始を告げる。
細い肩は断りなしに掴めば動揺と警戒に揺れた。
「なんだ、アルフレッド」
怪訝な顔に隠して見上げる双眸は端然とした見知らぬ気色だ。食事に誘えば不思議そうにしてそれから無意識に視線が彷徨う。
ねえ、戸惑った顔で探しているのはなに?
断る為の理由を見つける前に腕を引き、見えすぎる君の心の動きなんて見ない振りして朗らかに先を急ぐ。他人から不躾に触られるのが嫌いな君は嫌悪が隠せてない。
「嫌だな。何も企んでなんかないんだぞ。そうやって人を疑りすぎるのは君の悪い癖だ」
「知ったようなこと言わないでくれ」
少しのアルコールで饒舌になった君は当惑しながらも少しリラックスした表情を見せてくれる。畏まり過ぎず砕け過ぎないサルーン・バーはノスタルジックな内装とメニューが目新しくて逆に受けているらしくほどほどに人が入っていた。
スナッグは広くもないがプライバシーが守られており落ち着く。
ビーフの詰まったポップオーバーを器用にナイフで小さく切り分けながら上品に口に運ぶ姿に存在しない記憶が重なる。
「まだ飲むよね」
立ち上がり8割空いたポーターのグラスを指し示すと答えを聞かず踵を返す。
カウンターのバーキーパーにコークと少し思案してからビターをオーダーするとパンツのケツを探りアレックスを引っ張り出した。鼻の高いその横顔を眺め、彼の出自が思い出せない今、彼は何者だっただろうと解けない疑問をぼんやり考えた。
例えストロー級すれすれであろうと意識のない人の体はそれなりに重い。
「しっかりしなよ」
ふにゃふにゃご機嫌に鼻歌なんか唄ってる荷物をリンネルの上に放り出し手探りで枕元のブラケットのスイッチを入れる。ぼんやりと灯る明かりから庇うように前腕を顔の前に交差させ身動ぎ、んーと唸り声を上げるアーサーを見下ろして微笑んだ。
「大丈夫かい。水、飲む?」
いい、とひらひら振られた手を捕まえて接吻る。
「君、いつもこんななのかい?」
酒癖が悪いとは良く聞く。いつもそのお守りをするのはあの喧嘩ばかりしながら連れ添っている腐れ縁だ。俺が生まれた時には既に彼の隣にはあいつがいて入り込む隙なんて微塵もなかった。
遠くから眺めるだけしかできない俺にはいつだってその姿は眩しかった。
「もっと君の傍に生まれられたらよかったのに」
白く細いけれど指の長い男性らしい綺麗な手。爪先まで丁寧に整えられた初めて触れるそこは思ったよりも少し冷たい。唇で辿り軽く食むとぴくりと引き攣り力が入った。
「な、に…?」
「おはよう、アーサー」
きょろきょろと眼球を忙しなく動かし幾度も開閉運動を繰り返している眼瞼はほの白い。濃い眉の間にぎゅっと皺を寄せて瞬断した記憶を巡らせている様だった。
「アル、フレッド…?」
本能に基づく感情がアドレナリンを放出させ心拍を上げ彼の酩酊を覚ましていく。見開いたuの色の虹彩には何も映り込まない。
誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。
ならばこの劣情は何処からくる?
「愛してる」
−−−誰を?
「愛してる」
−−−どうして?
「愛してる」
−−−いつから?
頬を伝う涙の感触が君の姿を歪めた。
俺は身を起こすと模造のアーサーから離れ天を仰いで溜息を吐いた。
「菊…もういい」
視界を覆うヘッドセットから延びている電極が米神に張り付いて抵抗して少し痛んだ。
見慣れた寝室は浅梔子に塗り篭められ平衡感覚を失う。
「排除したウェスターマーク効果の範囲が広すぎてやはり破綻してしまいますね」
手足に繋がれたインターフェースの残滓を丁寧にタオルで拭いながら菊は淡々と感想を述べた。人の記憶というのは入り組んで複雑にニューロンを延ばし合い鬩ぎ合い干渉し合う。
「かなり自律プログラムで補強してらしく振舞えるようにはなってきたのですが」
「ああ、段違いにアーサーみたいだったよ」
瞳も髪も声も心も。
だけどどれも抱き締めたかったものは違うんだ。
俺と過ごした日々の欠損したアーサーはアーサー足りえるのか。
「ねえ、菊」
今度はタイムマシンを作ろうか?
中谷美紀「strange paradise」
Erich Seligmann Fromm「Die Kunst des Liebens」