絶望の花咲く丘で
「坊ちゃん、着替えないと皺になるよ」
はしゃぎすぎた身体を投げ出して沈黙したベッドに腰掛けて恭しく頭を垂れ丁寧に靴を外す。アーサーが今日の為にわざわざ用意した古城は古さも然ることながら無駄に広く、散会して銘々の部屋に戻った来訪者たちの気配も匂わせずしんと静まり返っていた。
マントすら外さないまま横たわる伯爵の髪を撫ぜ、Uピンとゴムで丁寧に留めてやった愛らしいブルーのドールハットを外した。最初は女の子みたいで嫌だとか散々駄々を捏ねていたが菊ちゃんのツボに入ったらしく手放しに褒められて御満悦だ。
ついでにデコにチュウしてやっても殴られなかった。
「なあ…」
くいと髪を引かれて覆い被さるように視線を合わせる。
「これ、なんの仮装なんだ?」
「ファントムだよ」
「仮面がねえじゃないか」
「それはオペラ座に住んでた男でしょ。坊ちゃんとこで言うならゴースト?」
「だから白い布なのか」
頭に被せたオーガンジーを捲くりながら無感動に呟くアーサーの口元からちらちらと牙が見える。八重歯にしか見えないそれがどうやって付いてるのか知りたくて指を突っ込んでしまいそうだ。
「そー。悲恋に生き、死してからも館に縛られた哀れな亡霊なの、お兄さん」
「まず縛られてる理由からして女々しい」
アーサーはつまらなさそうにそう言い捨てると同じくオーガンジーで作ったリボンの端を引っ張り結ってあった髪を解いてしまった。
ふわりと広がった金糸はバラバラに落ちて俺の頬と奴の頬を擽る。
「幽霊ってなんなんだろうな」
指先に髪束を巻きつけて無意識に唇で触れながら漫然とした様子でふとそう言った。
「それは坊ちゃんの方が一家言あるでしょ」
「うん、まあ…そこに居るからってそれがなんなのか俺にだって解ってるわけじゃねえよ」
人は死ぬ。
永遠を生きる俺達はその営みをずっと見守ってきた。
どんな人生を生きた人でも死は等しく平等に訪れるが、その意味合いはけして平等なんかではない。安楽の中に死す者、苦痛の中に死す者、死によって解放される者、死によって囚われる者。
「そもそもハロウィンってのは兄さんとこの年末の祭りだ。死者が帰ってくるから迎える為のな」
菊のとこでは夏に似たような祭りをするんだと言っていたとアーサーは続ける。盆という奴は俺も知ってるし、むしろ盆の日本には何回か行った事もある。
主に海の方にしか行かなかったけど。
「うちにはお前のとこなんかよりよっぽどたくさん年季の入った古城の幽霊が居るけど、それってのは本当のところは記憶に在るんじゃないかと思うんだ」
首元のリボンは弄っているうちにするりと緩んで外套のケープは白い喉を晒す。細いそれに浮き上がった口蓋垂が音に伴って上下するのをただぼんやりと見ていた。そこには感情の触れ幅がなくただ淡々と聖書を朗読するように機械的に響いた。
「死は痛いから、衝撃に耐える為に何度も反芻して思い出して語り継いで…そうしている間、ずっと幽霊はそこに囚われたままなんだ」
だって考えてもみろよ。
そんな何百年も何千年も消えない程の恨みや執着ってあるか?
歪めた唇が皮肉に嗤う。
−−600年位前に確かに俺はこいつを憎んでいた。
その思いは業火のようで痛烈に焼きついて一生消えないような傷になったと思っていた。
「確かにないね」
「だから忘れてしまわないようにこうしてランタンに火を燈すんだ」
普段はどちらかと言えば寡黙な男だ。
不器用で口が悪く自分の伝えたいことを上手く言えないと口を噤む。
「どうしたの、坊ちゃん。今日は饒舌だね」
丸い頬に額を乗せて指に絡む麦稈の硬い感触にきゅっと力を籠めるとわざと明るい声を作った。
楽しすぎた時間の後には反動でかよくこうしてぽっかりと空白のような憂鬱が訪れる。
「死ぬのは怖いけど死なないのはもっと怖い」
仲良しの兎が死んでしまったのだと泣いていた土に汚れた小さな手を思い出した。零れ落ちそうな湖の瞳をキッと見据えて白くなるほど唇を噛み締めて。
「いつも見送るばっかりだ」
死者の衣を身に纏う生者に紛れて悪魔が囁く。
もしもこの絶対の孤独を分け合う相手が居なかったら簡単に手を取ってしまいそうな甘い甘い耳打ちの毒。
惹き合う孤独の力は強力でどんどんこの惑星を縮めていく。
ラグランジュポイントでマイナスでもプラスでもないゼロの瞳をしたアーサーを覗き込むとポケットの奥の一つ残っていたセロハンを開いた。
それは菊ちゃんに貰った小さな小さな林檎で作ったタフィーでアルフレッドを始めとした子供たちに大好評の逸品だ。
「はい、あーん」
されるままに開いた口に押し込んで塞ぐ序でに子供みたいなバードキスを一つ乗せた。幾ら小さいとはいえアーサーのおちょぼ口には積載オーバーでしきりにもごもごさせてなにか物言いたげにしてる。
「ねえ、坊ちゃん。もしも俺が死んだら坊ちゃんに憑りついてていい?」
「やっと死ぬ気になったか」
「例え話でしょうが」
ガリガリと飴を咬みながら不明瞭な発音が不穏に響くので首を竦めた。
だってアーサーなら見えるからかなり寂しくないと思うんだ。
「駄目だな」
「ケチ」
「駄目だ−−お前が死んだら俺も死ぬからな」
JILS「Sin -約束の日、絶望の花咲く丘で-」