月の舟
「さみぃ」
小さく呟いて肩を竦めた背中はいつの間にか折れそうなくらいに細く抱き締めたいと寂しく思った。
「…終わるね」
きっと今頃ロンドンもパリもお祭り騒ぎで賑やかなのだろう。ニューヨークもトウキョウも世界中が同じ事柄を祝える時代になった。それは千年前には予想もつかなかった−−もっとも千年前は菊ちゃんとは知り合っていなかったし、アルフレッドはまだ生まれてすら居なかった。
「で、お前はなにやってんだよ」
革靴で砂の上を歩きづらそうにしながら近付いてきたアーサーは脚を振り上げて蹴る真似をしてくるから飛んでくる砂礫を手で避ける。ああ、千年前には俺の腕にすっぽりと収まる小さかった子供が懐かしい。
「舟?」
堂に入ったヤンキー座りで屈み込んだアーサーは俺の手元を覗き込んで目を眇めた。小さな木で作られた掌サイズの舟に茎を折られた花を敷き詰めていた俺はスーツの腰で手を払い指先でアーサーを呼んだ。
「んだよ」
「アーティ、ちょっと動かないでね」
頭頂部から少し下がった後頭部の辺り。
すっと気付かれないうちに取り出した小さな鋏で髪の一部を切り取ったことに彼が感づいた時にはもう事は終わっていた。元々短髪で跳ねっ返りな鈍い金糸はあまり長さはない。
「おま、なにやって…」
「一応目立たないとこ狙ったけど後でちゃんとおかしくないようにしてあげるよ」
見比べて自分の頬に揺れる一房を摘み同じくらいの長さだけ切り取る。明るい蜂蜜と愁いを帯びた麦藁。同じ金の髪でもこんなに色が違ったのかとぼんやり思った。
小さなゴムで一つに留めた毛束に銀のリボンを結わえ花弁で誂えた寝台にそっと乗せる。その上からグレーの小さな布を掛けて最後に同じように小さく作られたコバルトブルーの玩具のような盾を載せると俺はアーサーを見上げた。
「…なんのつもりだよ」
「お葬式をしようと思って」
棺に見立てた舟を大切に抱えて立ち上がると思いのほか足が痺れていた。波打ち際、足を取られそうになりながら進んでいく。
「しかも水葬かよ。懐かしいな」
口元を歪めたアーサーは嘲笑を浮かべて、それでも胸の前で小さく十字を切って見せてくれる。そっと気をつけて舟を波に手放し、ゆっくりとそれが沖を目指して進んで行くのを並んで見ていた。
「菊ちゃんちで、こうして流すとその魂は何処にも行かずにまたここに戻ってくるって伝説があるんだって」
「まあ、こっから流したら明らかに流れ着くのは俺んちだけどな」
「もう浪漫の解らない坊ちゃんだこと」
「で、誰の弔いなんだよ」
するりと伸びてきた細い手が俺の手を握り締め温もりを奪った。月の光は波の狭間に消え往こうとしている舟を頼りなく照らし千年前となんら変わらずこちらに同じ顔を見せている。変わっていくのは俺達だ。千年前には地球はまだ回っていなかった。
「んー…過去に置いて行きたいもの達の、かなあ」
空を飾った凶兆に怯えて始まった千年だった。今ではその正体も解っているのだから不思議だ。まあ、つい最近までまだそのことでパニックになっていたのは御愛嬌だが。
「なんだそれ」
「だって色々あったじゃない」
たくさん戦争をしてたくさん殺しあって夥しい屍の上に築いた平和。瓦礫の楼閣だと思っていたそれが今こうして手を繋いで隣にあること。
「もしも」
亡くしてしまったあの子も。
「もしもまた、俺達が戦うことになってもここにくればこの平和な日々が戻ってきてたらいいなって…」
「…ばぁか」
どすっと鈍い音を立てて案外その華奢な体躯からは予想のつかない重さの蹴りを背中に受ける。受身とってないと本気で痛いんですけど。
「もう戦うかよ。いつまでも子供じゃあるまいし」
背を向けて歩き出す。幾度もの戦火でボロボロになった街は逞しく美しい姿で今もこの海を見つめている。人は簡単に死んでいくのにけしてへこたれることなく廃墟に立ち街を興し子を生し営みを続けていく。
理から外れた俺達はいつもそれを眺めるだけだ。
「弱気になってんじゃねーぞ。欧州連合発起国が」
懐から出したシガーケースから煙草を一本器用に口に咥え、アーサーは火をつける為の手が空いていないことに気がついたのかちらりとこっちを見た。
別に手を放せば済むことなのだがどうにもそれがし難くてポケットからライターを探り出すと左手で灯りを点して差し出すと、ん、と満足げに笑顔を作り睫を伏せて唇を近づけた。
「ま、また千年この世界があるかなんて知らねーけどな」
カラッとした口調で笑う背中を抱き締めた。
34Km先の対岸に光の花が散る。世界が来るべき未来を順番に迎え入れていく。
「Happy Millennium」
「Happy Millenaire」
この千年を接吻けから始めよう。
−−まだ北パリ方面あったっけ?
−−は?ロンドンに帰るんだろ?
−−えー、やだよ。坊ちゃんとここういうお祭り騒ぎいつも酷いことになってるじゃん。
池田聡「月の舟」