静かの海
短すぎる秋は呆気なく掴もうとする指の間を擦り抜けて置き去りに行ってしまったが、鬱屈した重い自国の冬を思うにはまだ幾分優しい風か踊るような夜だった。
「これじゃいつもと変わらないじゃない」
苦笑いで腐れ縁が笑う。
昼は多くの人が行き交う塔の広場は今は相変わらずの無法地帯だ。酒の瓶は転がり砕け陽気なのか自棄なのか奇声のような歓声のようななんともつかない喧騒があちこちであがっていた。
「ちょっと待ってったら」
階段を降りジョージの脇を抜けると脚を獲られそうになるキルケニーの缶を避けて当てもなく蹴り込み、人の少ない水辺へと進む。上着は後ろから追い掛けてくるフランシスに預けたままで少し寒かったが火照った体の熱を冷ますにはちょうどよかった。
縁石に膝をつきそのまま冷たい温度に惹かれるように頬を乗せた。気持ちいい。
「ねえ坊ちゃんお願いだから寝るならホテルに帰ってからにして下さい!」
ほんと、言うとおりいつもと変わらない大袈裟な感情表現を伴ってフランシスの影が落ちる。
「うっさい糞髭」
「なんでお前んちで飲んでも結局お前んとこの上司じゃなくて俺が面倒見る羽目になるのよ」
「嫌なら帰れよばかぁ」
別にそんなに前後不覚になるほど酔ってたりしないんだ。
なんとなくいつもなら鍵を架けて仕舞い込んでいる衝動とか情動とかそんなものがどうでもいい枷のような気がしてしまうだけだ。
「なあに。御機嫌なの、不機嫌なの、どっちなのよ」
「普通だ、ばかぁ」
起き上がるつもりもない俺に根負けしたのかフランシスはむっすりと黙り嫌味たらしくチーフを取り出すと俺の足元に広げて腰を下ろした。
珍しく見上げる空は綺麗に雲ひとつない漆黒で大きな丸い月の独り舞台だ。
いや。
「ああ、ホレーショが…」
「ん?」
「月の海から見てる」
背を向けた男の姿を閉じた瞼の裏に浮かべる。隻腕に隻眼。嫌でも目立つ男だった。
「…そんなに後ろめたい?」
俺の視線の先の二つのキャストを振り仰いで冷めた海の青が硬い音を投げ掛ける。
栓を閉じても頭を置いた石には小さな漣めきが水特有の音を立て懐かしい浮遊感を思い出させた。
「200年だってあっという間だったんだ」
どんなに拒んでも時間は残酷に流れていく。
「たった…たった、50年、だ」
冷えて感覚の痺れた頬に血の通う温度が熱を齎す。
優しく撫ぜられる感触は緑の記憶を呼び覚ますので苦手だけれど嫌いな訳ではないんだ。
「50年かぁ…50年前って何してたっけ」
「Blue Gerbil」
「あー…お兄さんだって必死だったんです」
あまりにこの場に相応しすぎて相応しくない話題を嫌悪するようにフランシスはバツが悪そうにそれ以上拡げるなと仕草で制した。競い合ったのは沢山の命を奪う技術。
「これからは違うんだよ」
月光を浴びて凛とした表情を作ればその横顔はやはり作り物のように美しい。
「これからは奪う為じゃなくて守る為に使うんだ」
艶然と唇を緩めて差し出すその手を――。
「っちょっ!坊ちゃん!?」
間に合わず捩れた体軸はバランスを失って重力に捕らわれて堕ちる。
終焉という安寧を知らない体なのに大気を奪われればこんなにも苦しい。なのに還れるような錯覚を何処かでほっとした。
「なにしてんの、この酔っ払いはもー…」
汚れることを厭わしく思っていた癖に今は同じく水浸しになって俺の腕を掴み心底驚いた顔を作っている男はいつだって敵だった。
「…なんで泣いてんの?」
「泣いてねえよ、ばか…」
髪から滴り落ちる雫ごと庇う様に腕を覆った。
包み込まれる感触が警鐘を鳴らすのに逃げることが叶わなかった。
「たった50年、逃げないでよ」
強い力が恐ろしくして仕方ない。
何度だって殴り合って奪い合ってきた腕なのに与えられる今が一番怖い。
「お願いだから一緒に幸せになってよ」
ここで命なんて尽きてしまえばいいのに。
永遠の約束なんてできないなら――。
Scudelia Electro「静かの海」