アニマ -2
彼はそう言って話し始めた。言葉とは裏腹に、彼の目は悲しく伏せられていた。俺はそれを嫌な予感と考えた。冬の残り香が薄くなり始めた庭先でには、太陽が頑固に硬質な光を注いでいる。
「さて、次に僕が目覚めた時は喧噪も凄まじい戦場でした。目覚めた瞬間から得も言われぬ感情が身を焼いて、死んでしまいそうでした。早く自分も戦わなければ、と思いました。
アドレナリンが脳内を駆け巡って、僕はそこにあった武器を手に取り、戦いの中に身を投げ出しました。殴られても、斬りつけられても痛みを感じることはなく、僕が人を傷つけても、僅かな良心の呵責さえ感じることはありませんでした。
けれども僕は何を理由に自分がそんなに激しい感情を抱いているのか、分かりませんでした。なんの解決にもならないのに無益な戦いを続け、人を殺して、殺して、殺し続けました。それが本当の死だったのかは分かりませんが。
日に日に心が枯れ果てて、僕は誰にも殺されなかったからどんどん強くなって、もう誰も僕の敵では無くなってしまいました。だから僕は退屈で、退屈で、戦う事すら退屈になってしまいました。けれども、修羅道ではそんな武功などなんの意味もありません。なにしろ皆が戦い続けているわけですから。
何故戦うのか、と自分に問いかけても、うわべだけの答えすら思い浮かばないような状態です。疲れた、とも思わずに焦燥感だけで戦うような日々が続いた後、ふと、何を求める訳でも無いのに戦う事が無意味だと思いました。
けれども僕は笑うことも、泣くこともなく、ひたすら戦いました。そうすることでしか退屈を紛らわすことができない、と思っていたのです。或いは戦う事をやめたら自分の存在がなくなってしまうのではないか、と恐れていたのかもしれません。芽生えた絶望を見ない振りをするために、どんどん人を傷つけ、他人の肉体からあふれる血潮を浴びながら、一瞬の恍惚を追い求め続けました。
ある日、僕が戦いに退屈して木の陰に座っていると、一人の少年がおずおずと僕の前に進み出ました。どうしたのか、と尋ねると、彼はこの世界に全くふさわしくない、小さな声で言いました。
「あなたが、この辺りで一番強い方だと聞きました」
「ええ、そうですね。すくなくともこの辺りで僕より強い人はみんな殺してしまいましたから」
「そこを見込んで、お願いがあります」
「ほう、なんですか」
「僕を殺してほしいのです」
僕はその言葉に面食らいました。そんな事を言ってくる人間なんていなかったからです。僕は不思議に思って尋ねました。
「何故殺してほしいだなんて言うのです」
「僕は、こんな強い感情に耐えられるほど、強くはないんです」
少年は鳶色の目でそう答えました。僕は、少年の気持ちがちっとも分かりませんでした。疑問符でいっぱいになる思考が煩わしくて、僕は立ち上がりました。僕はいつものように、何故だかわからないまま、どうしようもない怒りを感じました。
「そうですか、では望みとあらば殺しましょう」
「お願いします」
少年は目を閉じ、救いを待つようにそっと微笑みました。僕は持っていた武器で彼の首を刎ねようとします。そのとたん、とても悲しい気持ちになりました。僕はじっとその場を動けなくなりました。
「殺してくれないのですか」
少年はうっすら目を開けて僕を見ました。
「わかりません」
僕は何故自分が悲しくなったのか、ちっとも分かりませんでした。何故少年を殺すことができないのかも。僕はとても苛々しました。人を殺すことはもっと酷く簡単なことであったはずでした。
彼は再び目を閉じて、じっとしていました。僕は彼に習って目を閉じ、心を静かにして、剣先に集中しました。簡単なことです。彼を殺すのにしなければならい動作は、とても少ない。相手はじっとしているのだから。
そして、僕は思い切って、剣を振り切りました。耳慣れた肉の潰れる音、それから骨を断つごりごりとした感触。彼の首から血が噴き出して、僕の体にかかりました。僕は彼を殺すことに成功しました。
僕はそれをいつもどおりの、普通の事だと考えようとしました。けれども、それはちっとも成功しませんでした。残ったのは確かな罪悪感で、このどうしようもない感情はそれ以降人を殺す度に大きくなりました。
僕はとうとう呵責に耐えきれなくなりました。酷く胸が苦しかったのです。人を殺す度に、まるで煮え湯を飲まされているような気分になるのでした。逃げるように洞窟に入り込み、それでも一日中戦う事を考え続けました。
ある日、疲れ果てて洞窟の冷たい岩に寝そべっていると、一匹の蛇が現れました。僕は、胸の苦しさからとても死にたくなっていました。その蛇なら僕を殺してくれるのでは無いかと、期待しました。
「お前は僕を殺してくれますか」
蛇は何も答えませんでした。まぁ、考えてみれば当たり前のことです。僕は帰ってこない答えを待つことができなくて、笑い出しました。そして同時に泣き出しました。
「あの少年の目が頭から離れません。あの少年の陰が僕の胸を圧迫するのです。苦しい。とても苦しい。もう死んだ方がましです」
蛇の冷たい目がよどんで僕を映します。
「僕は、何故戦うのでしょう。何故こんな感情を持っているのですか。いっそ何も感じない方が戦える。そうすればあの興奮が戻ってくるのに。どうしてこんな感情をもつのですか。持たなければならないのですか」
僕はさめざめと泣きました。汚れた体が気持ち悪い、と思いました。
蛇はそっと僕の体を這って、がぶりとかみつきました。僕は死にました。いつものように木でできた仏が現れました。僕はほとんど無意識に、あぁ、またか、と思いました。僕は問われる前にそれを破壊しました。僕は苦しみが止んだだけでも十分救われた気持ちになることができたからです。」
俺は酷く悲しい気持ちになった。悲しいことに、彼は笑っているのだ。俺は、こぼれそうになった涙をこらえようと庭に目をやる。まだ緑の見えない、茶色の庭園。白い光。
「骸、お前はさっきそれを『さほど悲しくない』って言ったよな。でもそれは悲しいって言うんだ。少なくても俺はとても悲しい」
「そうですか」
彼はそう言ってよくわからない、といった顔をした。俺は、目を閉じた。瞼に暖かいものを感じた。冬だとばかり思っていたのに、こうして庭先で目を閉じると、存外太陽は暖かいので、もう春になってしまったのかもしれなかった。
「もうすぐ春ですね」