小さな掌に
「また随分派手にされましたね」
ガーゼを固定するテープを綺麗に貼り付け呆れたような表情で菊ちゃんが言う。
いつものようにちょっとした揶揄いに坊ちゃんが大いに反応、口と同時に繰り出された手によってお兄さん大負傷。勿論、やられたままなんてしないから反撃によってアーサーもかなりのダメージを負って今はアルと別の部屋で治療中だ。会議は当然一時中断中。ああ、戻ったらルッツの小言が怖い。
「よもやいきなりとは思わなかったのでお兄さんともあろうものが油断しました」
「いつも不思議なんですけど」
薬箱を少し背伸びして棚に収めた菊ちゃんが振り向きざまとても愛らしく小首を傾げてこちらを見る。
「喧嘩になるのが解っていてどうしていつも手の届く範囲にいらっしゃるんですか?」
「え、そう?」
「ご自覚なかったんですか」
驚いて美しい星色の瞳を輝かせる菊ちゃんに道化けて手を広げて見せた。
いつもの心が何処にあるのか解らない微笑でなく少し幼い破顔はとても貴重で絵に描きたいなという欲求を呼び覚ます。彼はもっと自分のそういう部分に頓着すべきだ。
「皆さんそうですよ。こうして会議が頓挫してもけして貴方達に席を離せとは言わないのですね」
海を挟んだ隣の国。きっと遠い昔に起きた地殻変動で切り離された小さな島に見つけた小さな国は愛を乞う瞳で毒を吐く。
「だって坊ちゃんが俺に突っかかるのは趣味みたいなもんじゃん?離したところで被害が拡大するだけだと思われてるんじゃない?」
大袈裟なアクションで嘆きを表すと古狐は喉の奥でクツクツ笑う。
どうやら彼の中には違う答えがあるのかもしれないがそれを教えてはくれない。韜晦して笑みの雲に月光を隠す。
「なんで笑うかなあ」
唇を突き出して大人気なく撫すくれれば菊ちゃんはさあ?なんでもありませんよと救急箱を片付けて部屋を出ていってしまった。
そんな遣り取りをつらつら考えながら視線を落として旋毛を見る。
言葉にできない怒りに蟀谷を引き攣らせたルートヴィッヒに提示された解決法は誰から出たものだか至極生産的で彼のお眼鏡に適ったようでこうして二人居残りだ。
「ぼけっとしてないで手を動かせ、アホ髭」
最大限に不機嫌に塗り潰された横顔はこちらを一瞥すらせずに硬質な声だけ放って寄越した。アルに散々に文句を言われたのだろう、会議が再開されてからずっとこんな感じだ。こちらを見ようともしない。
集まった細々としたデータは参加国の多い会議だけに厄介だ。集計も抽出も作表も気の遠くなりそうな作業で、幾らパソコンがその大部分を担ってくれるとはいえ入力は手作業だ。積み上げられた資料から分担に割り振られた分を抱えて席に戻るが、もうこれ以上は画面を見たくないと目がストを始めそうなところだった。
「ねえ、ちょっと休もうよ。もう目が死にそうよ、お兄さん」
「死ぬのは構わないから全部やってから死ね」
唾棄するように冷たい一言が返ってくる。
殴られるのも痛いけれどこんな風に突き放されるのも痛い。
広い会議室の一角で並べたパソコンに向かって、手を伸ばせば届く距離なのに今はその温度も感じられないくらい遠くだ。
85センチ先のATフィールドの向こうを伺う。頬に貼られた大きめの絆創膏にはまだうっすらと血が透けて見えていて痛々しい、誰がそんな酷いことしたんだ、俺か。
細く通った白い鼻梁、皮肉しか言えない少し乾いた薄い唇。眉間に刻んだ皺は子供のような大きなエメラルドには不釣合いなのにいつもそこにある。手を伸ばせば触れることは簡単でそれは当たり前のことだった。
「…なにしてんだよ、てめえは」
「あ…」
青筋立った剣呑たる眼差しは俺の手と俺を見比べて地を這う程に低い声で威嚇する。いつの間にか瑕の上を辿るように不躾に伸ばした指はこれ以上傷つける意図などない。いつだってその掌はこんなことを望んでなんて居ないのに、彼の振り回した両腕はいつしか周りを傷つけ俺を傷つけ、そして自分自身を傷つける。
「痛そうだな、って」
「お前がやったんじゃねえか」
うん、そうだね。
「それに…お前だって同じだろ?」
伸びてきた細い冷たい指が俺の頬のガーゼを少し強く弾いた。
痛みに歪めて潜めた眉の間の皺を少し気分よさ気に見つめたサディストの女王様は一つ溜息を吐いてとんとんっと同じ指で資料の端を叩いた。
「シチュー」
なんだっけ、なんか変なちょっと卑猥な形のきのこが入った奴、ってポルチーニのことかな?この間、やたら満足そうに食べていた。
「これ、終わったらお前が作ったシチュー食ってやるからさっさと終わらせろ」
尊大にして不遜。
まだ小さかった頃に俺を見上げるのが嫌だっていきなり髪を引っ張られたことがあったなあと懐かしい記憶がふと蘇った。必死で伸ばした手で闇雲に掴もうとしていた俺を、世界を彼は捕まえることができたのだろうか。そしてそれは満足良く結果であったのだろうか。彼が本当に欲しかったものは与えてやれたのだろうか。
「D\\\'accord, la Reine」
傷だらけの掌に接吻けて、甘いミルクの味がする優しい晩餐と蜜に溶けた首筋に落とす唇の甘さを架空の糧に疲労を労り。
斯くしてまんまと奴は俺を作業に戻らせることに成功してるとか気づいてるからね!?
巡音ルカwithアゴアニキP「ダブルラリアット」