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果物をひとつ

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「お兄さん、お兄さん。そう、あんただよ美形のお兄さん。なぁ、どうだい林檎を一つ買わないか。見てご覧。今朝もいできたばかりの林檎だ。赤くて、つやつやして、美味しそうだろう? そうは思わないかい。いいや思うはずさ。なぁ、どうだい、よく見てご覧よ」
 声をかけても誰も気づかぬ。誰も止まらぬ。まるで見えておらぬように、街角で籠を抱えた老婆の側を人は通り過ぎて行く。
 ただ、つばの広い帽子に、インバネスコート。爪先から頭のてっぺんまで真っ黒な男だけ、足を止めた。
 青年は、染みも傷もひとつも持たぬ、ひどく端整な顔で老婆を見ると、ほんのすこしばかり、無表情だった顔に、なにかは分らぬ程度ではあったが色を滲ませた。
 口をそっと開く仕草さえ、おそろしく美しい。老婆はしかしそれには気づかぬ様子で、ただ一心に林檎を勧めようとする。
「――ひとつ、もらおう」
「あいよ」
 満足げな老婆の手から、指の一本にさえ欠点のない男の手へと林檎が落ちる。だが、それを男の白い手が受け止めるころには、老婆の姿など、影さえも消えていた。
「燐寸ならぬ、林檎が未練とは世知辛い――」
 だが、真っ赤な林檎だけは、しっかりと手の中に残っていた。
 考えるように一度宙に放ったものの、老婆の消えた街角へ、墓標代わりに林檎をひとつ。
 だがそれが腐り果てるか誰かが拾うかは、振り向かぬ男には与り知らぬことである。
作品名:果物をひとつ 作家名:しゅうぞう