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願い事ひとつだけ

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細い白が、風に舞う。


彼は飛び立つ前に、いつも空を見上げていた。道も見えない、向こう岸も分からない世界。嫌な想像が頭を巡るから。口をついて出そうになった言葉を、いつも必死で飲み込んだ。

彼からは、一度も泣き言を聞いたことがなかった。最も、自分には彼の声は分からないし。彼自身が自分に弱みを見せるとも思ってはいない。思ってはいないけど、見せてほしいと思っている。分かってる。これは自分の我儘だ。
命令は絶対。止める権利はない。いや。止める権利すら、最初から持ち合わせていない。彼は戦闘機で、自分は空母。零式艦上戦闘機と、航空母艦瑞鶴。そう名前を呼ばれた瞬間から、もう道は決まっていたんだ。


自分が見送る小さな背中。その向こうで、彼はどんな顔をしているのだろうか。
彼はその小さな身体に、どんな言葉を押し込めたんだろうか。

吸い込まれるように、いつの間にか姿は見えなくなっていた。


あの青い空が怖かった。







***



「…雨、止まんのじゃなぁ…」

外は、一面雨に濡れている。
静かに降る雨は、優しくて淋しくて物憂げだ。
昨日の空襲の火も、これで消えてくれればいいのに。胡坐をかいた足を組み直した。
小さな針が、布をすくう。


「霧ノ為作戦ハ中止」

明け方出されたその命令に、密かに胸を撫で下ろした。
濃霧の空に飛び立った航空機が、海にとどまる空母に着艦できる可能性は限りなく低い。それを分かっていながら、決死戦でも遂行させそうな、軍部の空気が怖かった。

視界の端で影がゆれた。
黒い眼差しが、退屈そうに見上げてくる。中止命令が出てから、彼はまるで壊れた機械のように、縁側に寝転んでいた。
ゆっくりと起き上がる。その彼が、人差し指を向けてきた。何かを見つけたわけではない。何かを知らせたいわけでもない。彼がいつも持っていた紙も筆も、とうの昔に取り上げられた。
贅沢だ、という理由でだ。

針を置いて、手のひらを委ねる。自分より少しだけ小さな手が、その指が、手のひらを滑った。
それ、なに?
自分に分かるのは、この短い言葉だけだ。

「千人針」

短く答えて、また針を持った。
予想どおり疑問符を浮かべられたので、照れ隠しに苦く笑った。
千人針くらいは零も知っている。海に何度も見送った、彼らの傍らにもあった。

白をひとすくい。そのたびに願い事をする。
彼女が教えてくれた。
今でも少しだけ泣きたくなるのは、たぶん恋をしていたからだ。


「本当は、赤糸で縫うんじゃろうけど。」


それはきっと、人だけの特権だ。
またひとすくい。願い事はいつも同じ。

「本当は町に出て、千人のおなごに縫ってもらうらしいんじゃけど」

戦場に、命を送り出す自分達が。戦場で、命を刈り取っていく自分達が。
自分たちの命を守りたいなんて、願えるわけもない。
だから。これはきっと叶わない。
叶わないと知っている、それでも手を伸ばす、弱い自分の我儘だ。




右腕に触れられる感触。
零の指が、何かを書いている。
何じゃ?と聞くと、もう一度指を走らせた。

“カ エ ル”
“カ ナ ラ ズ”

何度も何度も同じ軌跡を辿る。そのたびに言葉が皮膚を伝わった。

“シ ン ジ ロ”


自分を見上げた彼の目は、真っすぐだった。
あの背中の向こうで、空を見上げる彼の顔も。同じなのだろうか。


「信じとる」


またひとすくい。同じ動作を繰り返す。

「じゃけど。オレは、待っとることしかできんから…」

願掛けくらい許してな。そう言って、また針を動かした。
千回縫ったら叶うだろうか。万回縫ったら叶うだろうか。
叶うのならば、何度だって針を通す。民間信仰でも構わない。叶うのならば、何にだって縋るだろう。
人も兵器も願いは同じ。
大事な人が、生きて戻ってこれますように。



針山から、ひとつ針が抜かれた。視線を彷徨わせたので、糸を手渡すと。歯で噛みちぎって、糸を通した。それを、ぼんやりと見つめる。

“ガ ン カ ケ”

床に、指が走った。
ハチマキの端をとられる。


“カ エ ル ト コ”


“ナ ク ナ ッ タ ラ”


“ヤ ダ”



布に白を通される。
すん、と鼻をすすった。


“守るから”
“必ず”


そう、聞こえた気がした。


見上げた空は、まだ雨を落としていて。まるで誰かの涙のように、優しく大地を濡らしていた。
次にもし雨を見るとしたら、それはきっと戦場でだろう。
青い空に降る、鉛玉の雨だ。


「止まんかったらええのに…」


叶わなくとも、願わずにはいられない。
瑞鶴は、再び針を動かした。
作品名:願い事ひとつだけ 作家名:呉葉