If I Fell
後ろの席から人妻が声を掛けてくる。
「もちろんガラス越しじゃなくてよ?」
悪魔のささやきに、タクトはわずかに肩をすくめた。
「でしたらキス以上のことは?もう経験されているの?」
顔を前に向けたまま、タクトは小さく息を吐いた。
教室中の空気がピリピリしているのが手に取るように伝わってくる。
ミセス・ワタナベの退屈しのぎの対象になるつもりなど、タクトにはまったくなかった。太刀打ちする気も毛頭なかったし。ぶっとんだ発言をジョークと見なして、対等に渡りあうことができるのは、よっぽどのツワモノかスキモノ、そのどちらかだろう。彼女の席に並んで控える、例のお付きのふたり組。あいつらはどちらも見かけはアレだけど、無駄に筋金入っているんじゃなかろうか。
「残念ながら――」
タクトは肩越しに人妻に笑顔を投げた。ミセス・ワタナベはこちらに身を乗り出してくる。
「残念ながら?もう経験済みなのね。でもわたくしに気を遣われる必要は全然ございませんことよ?」
「気を遣ってるんじゃなくて」
くるっと顔を巡らせて、タクトは正面から彼女に微笑みかけた。
「残念ながら、プライベートに関してはお答えできません」
授業の終わりを告げるチャイムを聞きながら、タクトはそう言って立ち上がった。
ひとつ前の席で委員長が難しい顔でタクトと人妻を睨んでいる。こういう時はしらんぷりをかますのがベストだ。
かばんをつかんで、教室を横切ると、女子の数人の目がこちらを追いかけてくる。
通りすがりに彼女たちのささやき声が耳に飛び込んできた。
「タクトくん――」
「ファーストキス――」
「とっくに――」
そんな会話にタクトは顔をしかめる。
別に誰が誰とキスしようが構わない、けど、お願いだから自分のことはほうっておいてくれ。まさに、そんな心境。
息が詰まったような気分だ。どこか広い場所に行く必要性を感じている。
海だ。海がいい。でもそこに行くより先に、手近な場所で深呼吸をしたかった。
そうだ。屋上。そこが手っ取り早い。
青い空を見上げて深い呼吸を取り戻せば気分もすぐに晴れるだろう。そう思った時には、タクトはもう屋上に続く階段を駆けあがっていた。
ところが、屋上行きのドアの前には、既に先客あり。
「――スガタ?」
ほっそりしたシルエットにタクトは呼びかける。
明かり取りの窓を逆光に、驚いたスガタの顔がこちらを振り向いた。ひかりは淡いが白っぽく、暗さに慣れた目にやけにまぶしい。タクトは顔に手を翳し、ちょっと目を細めながら、スガタに問い掛けた。
「おまえも息詰まったわけ?」
「息が詰まった?」
スガタは不思議そうな顔で、こちらにまたたきをしてみせる。
「ま、なんでもいいけど――ていうか、屋上、出ないのか?」
タクトは親指でちょいちょいっとドアを差し示した。
「あ、それが――今ちょっと……」
「今ちょっと?」
ふたりがそんな会話を交わしているところに、問題のドアがこちらに向かってひらかれた。
ドアからあらわれたのは見知らぬ男子と女子。どうやらカップルと思わしきふたり組だ。
タクトは驚いて目を見張ったのだが、カップルはもっと驚いたようだった。
決まり悪そうに素早く目を見交わしてから、ふたりは階段をさっさと下りていく。
「なんだ、あれ?」
タクトは片方の眉を吊り上げた。その横でスガタは困ったような笑みを覗かせた。
「悪かったな、あのふたりに」
「悪かった?なんで?」
「逢引の邪魔してしまったようだから――」
「あいびき――?」
スガタはうなずき、視線をドアに投げた。
「さっきドアをあけたら、ちょうどあのふたりがキスしてるところだった」
「――マジで……?」
タクトの目がまんまるになっていく。
「我ながら無粋だったよ」
そう言ってスガタは低く笑った。苦い笑みを浮かべた横顔が、いつもより大人っぽくて。その横顔に魅入られたまま、タクトはふいに口をひらいた。
「おまえ――キスしたことあるのか?」
「えっ?」
びっくりした顔がこちらに向けられる。でも表情はすぐにほぐれて、笑顔に変わっていた。
「君ってヤツは、本当に唐突だな」
スガタは言ってクスクス笑う。
「あらわれたのも唐突だったし、おまけに唐突な質問を遠慮なくぶつけてくる」
「悪かったな」
ムっとしてそう言うタクトを見て、スガタは声を立てて笑った。釣られて笑ってやるべきかどうか、タクトが迷っていると、おもむろにスガタがこんなことを言いだした。
「したことないよ」
「えっ?」
「キス」
「――――!」
いきなり答えを突きつけられて、何も言えなくなってしまった。ここで必要なのは、ミセス・ワタナベ張りのぶっ飛んだ発言なんだろう。でも何も言えなかった。イカしたジョークで返してやることもままならず、なんとなく間が悪くなっていた。その間を埋め合わせるように、タクトはアセって言葉を続けた。
「でもさ、ほら、おまえはワコっていう婚約者がいるわけだから、それなりに経験アリでも不思議じゃないわけで――」
自分がここを訪れる前のスガタとワコの暮らし。ふたりの関係。それを知らなくてよかったという気持ちと、知りたいという気持ちは、ちょうど半分ずつだ。
淡いひかりを顔と髪の片側に受けながら、スガタは笑顔をこちらに向けた。
「君はファーストキスなんてとっくに済ませましたって感じだね」
「なわけ――」
ない、のに。
キスなんて、まだなのに。
はっきりそう言ってやれないのは何故なんだろう。
花びらみたい微笑んで、スガタは軽く手を上げた。
タクトに背を向け彼は颯爽と階段を下りていく。
踊り場に取り残されたタクトはたったひとり。
さっきよりもっともっと息が詰まった気分になっていた。
広い場所で空気を吸う必要性を強く覚えて、タクトは急いでドアをひらいた。
澄んだ青空から乾いた風が吹き付けて、キスを知らない唇を撫でるように掠め通っていった。