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クリスマスのこり1時間

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「ほな、お先に失礼しますー」
「先生、残り少しになっちゃいましたが、良いクリスマスを!」
「ありがとう」
 白衣を畳む間も惜しく、謙也はたった今脱いだそれを左手に引っ掛け、スーツのボタンを留めながら更衣室を出た。右手に持っているコートを着ようとするが、左腕の白衣が邪魔でモタつく。このせっかちな癖、もう今更直らんのやろなァ、と苦笑しながらようやく羽織ったコートの襟を立てる。今日は風でずっと窓がきしんでいた。ドアを開けたときの寒さを想像して、もう身が震えている。
 病院の職員用出口は、最近改装したばかりの玄関とは違いえらく古びたガラス扉だ。掃除をサボっているというわけではないのだろうけれど、年月の分だけ汚れがたまって、隅のほうが茶色く濁っている。年末ジャンボが当たったら、この扉をこっそり付け替えるなんて悪戯をしてもいいかもしれない。
 無意識のうちに、ガラス越しの夜闇を鏡にして謙也は髪を整え服装を正していた。とは言っても、別に今日に特別めかしこんでいるわけでもないから、映っているのはいつもの自分だ。にもかかわらずいつの間にかひとりキメ顔をつくっていた自分にはたと気づき、ごまかすようにして咳き込みながら、謙也は扉を押し開けた。相変わらず、ギギイと不穏な音が響く。
「あっ……」
「ドーモ。えらい気合入ってますやん」
「……見てたん?」
「そら、もう」
 職員玄関を斜めに行ったところにある、えらくおざなりな喫煙スペースでひとり、男が壁にもたれながら煙を吐いていた。iPodのイヤホンを外しながら煙草を唇にくわえて、無言で髪の毛を整える仕草をしてみせる。意地が悪いのだ。
 嘘やぁ、とうずくまった謙也を見下ろし、満足気に片眉を上げると、財前は手に握っていた車のキーを振った。チャリ、と揺れたキーホルダーが今までのそれと違うことに、謙也は気づいていない。それでもいい、と思いながら、財前は謙也の前に進み寄るとその腕を引っ張り上げた。
「寒いわ。早よ帰りましょ」
 そういえば、財前はセーターを1枚着ているきりで、ジャケットさえ着ていない。玄関から駐車場までは、結構距離がある。しかしコート貸そか、と謙也が言っても、財前は顔の前でヒラヒラと手を振るきりだった。
「てか、自分、実家帰ってたんと違うの……」
「ハア、行ってましたけど」
「ほなら……」
「あのね、ええ年してイブもクリスマスも実家で過ごすなんて嫌やねん。だいいち、昨日はあんたがおらんから実家行ってただけですわ。今日は元々戻ってくるつもりやったんです」
「せっかく近くに住んどるんやから、もっと帰ったればええのに」
「あんま頻繁に実家ばっかり行っとると、恋人おらんのやろとかはよ結婚せえとか、ウザいねん」
「そういうもんやろか」
 そういうもんすわ、と妙にしたり顔でうそぶく財前にむっと顔をしかめて、謙也は少し体当たりをすると、ポケットに突っ込まれていた手をグイと握った。
「手ェ煙草くさい!」
 そのまま鼻先に持って行って、照れ隠しのようにギャアと叫ぶ。財前は財前で、ホラ臭いやろホラと謙也の鼻に自分の手を押し付けて、成人をとうに越え、中学時代よりもむしろ子どもっぽいやり取りをするようになった二人である。
 それからなんだか躁めいた小突きあいを暫くして、やっと駐車場にたどり着いた。今日、謙也は自転車で通勤したから、忍足謙也医師用のスペースには――
「あっ。あれ? ん?」
 あれっ? え? とキョロキョロしはじめた謙也にニヤニヤ笑いながら、財前はポケットから取り出したキーのボタンを押した。ピピピ、と鳴った電子音は、その見慣れない車からしたものだ。
「……えーっ。……えっ。マジで? マジで?」
「マジマジ」
「えーっ!? うそ、えーっ!? 買うたの? これ買うたの? なに、めっちゃカッコええやんー! うそー、マジでー!?」
 ええやろ、と相変わらずニヤついたまま、財前は助手席のドアを開けた。右側の。どうぞ、と冗談めかして手の平を差し出すから、「嬉しいわァ」ときちんと拾って頬に手を当てるのはいつもの二人だ。
「おわー! すごい! レザーや! レザーや! かっこええー!」
「レザーだけやないで」
「えっ……何? 何コレ!? えっなんか動いとるんやけど!」
「まさかのマッサージ機能付きや」
「なんで!? わけわからん! 無駄! ジャパネットたかたか!」
 ウワーッ! とはしゃぐ謙也に「はしゃぎ過ぎすわ」と呟きながらも、運転席に収まった財前もいつになくニヤついている。ダッシュボードから新しい煙草のパックを取り出して一本くわえると、シガーライターをジュッとやった。
「初ヤニ・イン・おニューの車や」
「じゃあ俺は初フリスク奪ったる」
「残念、それはさっき俺がやりました」
「何!? めっちゃ悔しい……ならここはあえて、」
 初チューはいただきや、と、謙也は素早くシフトレバーを乗り越えて、火のついたばかりの煙草をヒョイと掠め取ると、財前の唇に噛み付いた(というのはもちろん比喩表現だ)。
「……まあ、かわいげがのうなってもうて」
「え? 今のめっちゃかわいいやん」
「あんたの恥じらいは美徳やねん」
 まったく、とぼやきながらも、財前は離れていこうとする謙也の頭をぐいと引き戻すとむしゃむしゃと舌べろをむさぼった(というのも、もちろん比喩表現)。
「……ここ一応俺の職場やで」
「あんたが始めたんやろ? ドーモ初チューおめでとうございます」
 しれ、と言い返して、財前は謙也の指から煙草を奪い返した。

「結局、クリスマスゆうても特別なことはそんな無かったですね」
 男二人のクリスマスらしくドライブスルーでフライドチキンとちょっとしたサイドメニューやらドリンクやらを買って、そろそろ無言で夜道を走りだした、そのときだった。ぽつりと呟かれた財前の言葉は、今始まったばかりの、謙也が全然知らない洋楽に溶け込むようにして消えた。
「……車買ったのに?」
「それだけやのうて、チキンも食うたし甥っ子どもにプレゼントも買うたし実家にイルミネーションも付けたりました」
「イルミネーションまでやって特別やないんかい」
「案外、そういうもんすわ」
「そういうもんやろか……」
「なんぼ楽しゅうても、あるでしょ。ふっと、『いや、これ結構どうでもええな』って思ったりする瞬間。わかる?」
 んー、と声を漏らして、謙也は靴を脱いだ足をシートの上に上げた。身体が柔らかいから、男のくせにシートの上で膝を折りたためる。トン、トン、と膝頭を指で叩いている。
 財前の言葉は、無遠慮でも、無神経でも、可哀想がりでもないのだった。だから謙也は困らないし、悲しくもならない。財前を哀しいとも思わない。それが財前だし、自分がそれを好きになったのだから、少なくとも格好良い奴なのだろうと――そういうところ、案外謙也は肝が据わっている。
「光は、あれみたいやな。高速道路の脇にいっぱい立っとる、背の高い電灯……」
「なんですの、それ」
「説明したらポエムっぽくなるから、ダメ」
 またおかしなこと言うとる、と言いながら、アクセルを踏む財前の横顔は笑っていた。
作品名:クリスマスのこり1時間 作家名:ちよ子