朝霧
部屋の外がこれなら家の外はどれぐらいの寒さだろうか。
そう桂は思った。
それでも家の外へ出て行かなければならない。
自宅に帰らなければならない。
それも人目につかない朝早いうちに。
ここは師である松陽の家だ。
ただし、松陽は今は亡い。
思想犯として江戸で処刑された。
ちょうどそのころ桂は江戸にいて、刑場に埋められることになっていた松陽の遺体をひそかに役人に金を渡して引き取り寺院の墓地に葬った。
思い出すと、胸が痛む。
怒りがわいてくる。
しかし、その怒りを心から散らして消し去る。
今は。
玄関のほうへと歩き続ける。
やがて、土間におりた。
草履をはき、戸のまえまで進むと、足を止める。
戸を開けた。
桂は軽く息をのんだ。
視界が白い。
「……すげー霧」
背後から、ぼそっと言う声がした。
この家の現在の主である銀時の声だ。
八畳間にとどまっていると思っていたが、ついてきていたらしい。
いざとなると完璧に気配を殺せるのだから、たちが悪い。
もっともそれは桂も同じであるので責められない。
桂は振り返る。
銀時は土間へとおりた。
眠たげな表情で近づいてくる。
すぐそばまで来た。
その顔に、桂は問いかける。
「なんだ」
「朝の散歩だ」
銀時は戸をさらに大きく開けて外に出た。
直後。
「寒っ」
身を震わせた。
桂も家から出た。
戸を閉め、銀時を追う。
すぐに追いつき、横に並んだ。
あたりは霧に包まれて、庭の木は輪郭のぼやけた影のように見える。
「こんなときに散歩か。酔狂だな」
桂はからかった。
もちろん散歩という回答をそのまま信じたわけではないが。
銀時は桂のほうを見ず、横顔を向けている。
その口が開かれる。
「酔狂なのはテメーのほうだろ」
素っ気ない口調で言い返してきた。
門を通りすぎた。
道沿いに田圃が広がってる。
田圃にも霧が落ちている。
深い、深い、霧。
少し先は真っ白で、なにがあるか見えない。
酔狂。
自分のどこが。
そんなこと問わなくても、なんとなくわかった。
身分の高い家の当主で、藩政府から期待されてもいる。
それなのに、家の者が寝静まった夜に家を出て、罪人の家に行き、泊まって、早朝に帰る、ということをくり返している。
ただ泊まるだけではない。
性的な交わりもある。
しかも自分は女のように受け入れる側だ。
見た目のせいか男から言い寄られることは何度かあったが、まっぴらだと思っていたにもかかわらず。
相手が銀時だからこそ。
それでも、ためらいはあった。
抵抗はあった。
だが。
養い親である松陽を亡くした銀時から求められて。
心がひどく揺れた。
求められた理由は、寂しさからくるものだったかもしれない。気をまぎらわせたかったのかもしれない。
ずっと好きだったとは言われた。しかし、それは今の関係に持ちこむための嘘かもしれない。
けれど。
心を大きく揺さぶられた。
銀時が押し倒してこなくても、自分のほうから手を差しのべていたかもしれない。
放っておけなくて。
抱きしめたくなって。
わけのわからない感情が胸にあふれて、全身を支配した。
バカなことをしていると自分でも思う。
それでも、銀時が待っていると思うと、深夜に家を抜けだした。
実際、桂の自宅のある城下町と銀時の住む家のあるこの村を隔てるように流れる川にかかる橋で銀時が待っていたことがあった。
季節は冬だ。
夜になればいっそう冷える。
もう二度とこんな真似はしないでくれ。
そう桂が言ったので、そういうことはなくなったが、そんなことは一度されれば充分で、できるだけ会いに行こうとするようになった。
感情に突き動かされる。
なにもかも捨ててもいい。
そんなこと、できるわけがないのに、心が叫ぶことがある。
銀時が大切で。
大切で、大切で。
「桂」
銀時が言う。
「オメーは俺より先に死ぬな」
どう返事するか桂が迷っていると。
「それで、俺が死ぬまでそばにいてくれ」
そう言われた。
いっそう困る。
夜に部屋でふたりきりでいるときならともかく、今は朝で外を歩いている。
いくら霧が深くて、まわりがあまりよく見えない状況だとはいえ。
夜のように勢いのせいにしてしまうことはできない。
「返事は?」
ぶっきらぼうに聞いてくる。
その声に、かすかに恐れを感じ取った。
否定されることを恐れているような気がした。
胸が締めつけられる。
「ああ」
わかった、とまでは言わなかったが、肯定した。
銀時は黙っている。
その隣を、桂は歩き続ける。
あいかわらず、あたりには霧がたちこめている。
進む先が見えない。
先のことはわからない。
さっきそう答えようとして、やめておいた。
わからないのなら銀時の望む答えをしようと思った。
朝霧の中。