世界で一番お気に入り
つまりそれは彼が俺の到着を待っている時からさっきまで彼の口を潤すために置かれていたものであって、俺のじゃない。
普通、誰でも、話している途中に喉が乾いたら、自分のためだけに汲まれたまっさらで冷たい淹れたての飲料水が飲みたいものだ。
そんなことは言わなくてもわかるだろう普通。
いちいち考えるほどのことですらない。
しかし彼はわずかな迷いもなくまるでそれが世界の定理であるかのごとく当たり前に、自分の、飲みかけの、コップを差し出してきた。
彼は俺のことを、尊敬しているはずだ。自分より上位の人間にこういった行為をするなんて常識的にはあり得ない。
というかそもそも、俺は、いわゆる間接キスにあたる行為が非常に苦手である。
気持ち悪いからだ。
ペットボトルの回し飲みなんてする奴の感性が信じられない。
が。しかし。
(もしかしてこれが、最近の若者のスタンダードなのか……?)
目の前にいる彼は、俺が愛してやまない人間の中でも、最近特にお気に入りのひとりだ。なにしろ彼は、とても常識的な性格をしている。けれどもたまにひどく常識から外れた意外性を見せてくれる。観察対象としてこちらを飽きさせることがない。愛すべき人間としては非常に模範的な存在だ。
ならば彼の行動は世間一般の男子高校生にとって常識的なことであり、これに驚く自分の感覚はジェネレーションギャップによるものだといえる。
ここで、常識ある社会人として、こういう場合は、さっと席を立ってすぐ近くに常備されているポットに入ったレモン水をすぐそばのコップに淹れて、はいどうぞ、と差し出す。これが正しい行動だよ。と教えてやるのもそれはそれで正しいことだ。
しかし、それじゃ、俺はそこらへんにいる分別ある大人ってやつと同じでしかない。そんなのはつまらない。俺自身もそう思うし、目の前の彼もきっとそう感じるだろう。
それはなんだか、おもしろくない。
というわけで俺は鳥肌と嫌悪感を無理矢理引っ込めて、差し出されたコップをさりげなく回転させて飲み口を調正してから、中の水を一気に飲み干した。ついでにやけくそでにこりと笑顔をくれてやる。
「―――――ありがとう」
ふは、と息をついて空のコップを彼の手の中に戻すと、何故だか彼はちょっと驚いたような色を目に浮かべた。
そうして動作を止めてしまった。何か考えているようにもみえる。俺は水の口直しに、彼の前に置かれている冷えきったポテトをひとつつまんで口に入れた。これを飲み込んだら何か言ってやろうと考えながら咀嚼していたら、それより先に彼が口を開いた。
「……臨也さんって、かっこいいと思ってたんですけど」
俺は平常心を保ったまま、続く言葉を待った。
「実は、かわいいひとだったんですね」
飲み込むつもりのなかった芋の破片が進行方向を誤って中咽頭をかすめた。俺は必死でむせて喉を震わせた。
「……っ、ゲホッ、は、はぁっ……?」
「あ、すっ、す、すみません臨也さん」
生理的な涙ににじむ視界の中で、自分自身の発言を詫びるように少年がちぢこまっている。
「大丈夫……ですか……?」
おそるおそる、弱腰で差し出してくるハンカチ。俺はそれを一瞥して片手を挙げ、咳払いをひとつしてから、せいぜい大人の余裕でもってやわらかい微笑みを返した。
「…………や、大丈夫。貶されるのかと思ったら褒められて、しかも男の子からかわいいなんて言われたことないからさあ、びっくりしちゃったよ」
「え、そうなんですか?」
「なんで驚くの?」
そこで心底驚いた顔を向けられても、こっちが驚きだ。
「え、だって、臨也さんって可愛いじゃないですか」
褒め言葉にしてはストレートすぎる。
怪訝な表情を隠す必要はないだろう。俺は彼に問うた。
「帝人くんさあ、俺のことが好きなの?」
「えっ……?」
俺の問いかけというか確認というか詰問に一度ぎくりと固まってから、彼は、喉元に詰まった言葉をゆっくりと解きほぐした。
「……すき、というのが、確かに近いのかもしれません……嫌でしたか、ですよね、すみません、あの」
「近いってどういう意味? 違うってことかな」
意味のない謝罪は無視してさらに追及する。
「いや、違うんです、こう、臨也さんのあの、人ラブ!っていう、人間愛に、ちょっと似てるっていうか……セルティさんに対してとか、そう、俺はこの池袋って街が好きで、今の環境が好きで、そういうものの中に、臨也さんも居るんです」
「…………へえ?」
俺は自分の眉間の皺をまだ解く気はなかった。そのまま鼻で笑うと案の定、目の前の彼は目をぱちぱちさせて困った。
「……あの……?」
「つまり何? 帝人くんは、俺のことは、この池袋にまつわるもののひとつ、くらいにしか思っていないわけだね」
さすがに大人気ない事を言ってしまったぞ、と、気付いたのは言ってしまってからだった。
「何かと同列に見られるのとかさあ、すごく嫌いなんだよね。俺」
声のトーンを落としてみたところで、口から流れ出てる文章は我ながら中二でしかない。
(何言ってんだ俺、子供相手に)
しかしさらに滑稽なことに、彼はそんな俺を侮蔑もせず、ただひたすら慌てて取り繕った。
「ち、違うんです、あの、その中でも臨也さんが一番なんです」
「は?」
「なんというか、うまい表現が見つからないんですけど、その……俺にとって、一番のお気に入りが臨也さんなんです!」
頬をちょっと赤らめて弁解する様子はどこまでも必死で、俺はつい、気圧されてしまった。
「……そう、なの」
「はい!」
彼があまりにも真摯で常識的に必死だったので、その言葉の内容について深く吟味することはしなかった。
「……ありがとう」
好意に対する礼だけを告げると、竜ヶ峰帝人は心から安堵した溜息とともに椅子に腰掛け直した。
俺は彼を人間として愛している。彼は俺に一目置いている。
だから彼の、あまりに無害な様子を確認して、俺はわずかな違和感に蓋をした。
俺の認識に間違いはないのだ。これまでも、そして、これからも。
作品名:世界で一番お気に入り 作家名:463