めぐるもの
中2の冬、雪の降る日に、幸村は倒れた。その病名がしらされた翌日、俺は幸村とふたり病院の裏側にあるさびれた公園へ向かった。ペンキの剥げかけたベンチに並んで座り、何をするでもなく地面を眺めた。手持ち無沙汰に置いた指先が偶然にふれて、離せなくなって、けれど目も合わせられずに、ただ神経を指先に集め俺達は、何も気付かないふりをしていた。そのときの俺達には過ぎてゆく時間や離れてゆく距離や、さらってゆくすべてに対抗する術はなかった。けれど離したくなかった、その温度をけして。消えてゆくものならどうにかしてその速度をゆるめたかった。ただ指先の温度を握り締めて、青く晴れ渡る空をきつく睨むことしか出来ずとも。
いま俺の目の前には大きなマンションと駐車場が広がっている。病院裏のさびれたあの公園は、いまはもうない。あの日青空が夕焼けに変わってゆく中、繋いだ指先に力を込めて、俺達がくちづけをしたベンチはもはや跡形もなく、その場所には白い軽自動車がつつましい姿で停まっている。20年の月日はたくさんのものを奪っていった。俺から、世界から。さびれた公園はマンションへと姿を変え、中学生だった俺はいまや立派なおっさんだ。だというのにまだ俺は、奪われていくものを取り戻せずに立ち止まっている。あのころと変わらず空を睨んでいる。
「星になりたいんだ」
そう言って幸村は空を見上げた。空には1番星が輝いていた。幸村の瞳にうつりこんだそれは気後れがするほどに綺麗で、俺はうまく息が出来なかった。「いつかね」そういって微笑んだ幸村に俺はなにひとつ返せぬままその瞳を見詰めた。いっときは治ったかと思われたその病が、ふたたび彼の体を蝕み始めたのはつい一月まえのことだった。35度目の年越しを前に彼は倒れた。病の中彼がふるえる口唇で告げたのは「星になりたい」のひとことだった。その瞳はあのときと同じに星がうつりこんだように瞬いていた。俺はそのまばゆい光にあのときと同じに絶句した。「駄目だ」そう言おうとしたがその言葉は喉からどうしても出てはくれず、代わりに俺はその星のような瞳を見つめ「・・・いつかな」とささやいた。彼は「うん」と微笑んで、静かに一筋涙を流した。
幸村がいなくなってはじめての年越しがやってくる。俺にとってはじめての幸村のいない正月だ。なんだか淋しく心細い毎日の中、年末の浮かれたムードにさえ乗り切れず、俺は大きな花束を抱えてこの場所に立っている。花はすべて幸村が育てていたものだ。彼が愛した庭は、いまは俺が守っている。まだうまくは育てられぬが、ひとつづつ勉強していくつもりだ。この花のひとつひとつに彼の生が宿っている。幸村の生きた証だ。それを白い軽自動車のそばに立つ細い木の根元にそっと置く。空は夕焼けを越え蒼く暗く夜を運んでいる。離したくなかった、けして、消したくなかった、そのすべてが、彼が、俺の手をすり抜けてゆく。速度はゆるむことなくすべてを引き剥がして遠くへと連れてゆく。見上げた空は夜の匂いをゆたかに纏い、その向こうにはたしかにひとつ、きらりと輝く1番星が、じっと俺を見下ろしていた。