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謙也くんと猫白石の同居生活

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 大学に進学した春、猫を飼い始めた。
 謙也は「一人暮らしをしていて本当に良かった」と思った。おそらく実家に連れて帰っていたら、即追い出されたことだろう。
 猫は、他の猫とはまったく違う容姿をしていた。8割方人間で、残り2割が猫といったところだろうか。「猫」と呼ぶより「人間」と呼んだほうが間違いないのかもしれないが、彼自身が「猫」だと言うのでそうなのだろう。ほとんど人間と同じ姿の彼は、白石蔵ノ介と名乗った。以前の飼い主の姓らしい。白石は人間の姿をしていたが、2つ違うところがあった。銀髪の中から二つ、三角の耳が生えていること(まったく猫のそれと同じだ)と、腰より少し下辺りから、艶やかな銀の体毛に覆われた細長い尾が生えていることだ。
 毛並みは銀、体温は低め、パーツの一つ一つが整った顔つきに鋭い目つき。端麗ながら氷のような冷たさを連想させる容姿だったが、意外にも彼は懐っこかった。雨の中行き倒れているのを拾った当初こそよそよそしく、警戒も露に毛を逆立てていたが、謙也の部屋で暮らすことになった翌日には随分と表情が明るくなり、纏う空気も柔らかくなった。そのうえ猫のくせに、手先が器用であることがわかった。一度教えれば家事などもやってのけたし、教えた覚えもなければ食べたこともない料理を軽く作る。
「なんでお前、こんなフランス料理みたいなん作れるん?」
 何なのかもよくわからない物体をもごもごと咀嚼しながら、向かいに座っている白石をちらりと見遣る。
 ああ、今噛んだん、ホタテや。
「そんなん、ネットでも本でもレシピ載ってるやん。なあ、ケンヤ、うまい?」
 白石はさも当然のように回答を切り上げ、どこかわくわくした表情で謙也の顔を覗き込んだ。謙也は人間として悔しいような、照れくさいような妙な感覚に襲われながら俯いて皿の上の大仰な盛り付けに目を落とした。
「……うまい」
「よかった!」
 明るい声につられて顔を上げると、見惚れてしまうぐらいのきれいな笑顔がそこにあった。彼はどうやら文字が読めて、パソコンの使い方までも心得ているらしい。



 白石が謙也の部屋に住み着いてから、数ヶ月が経ったある日の朝だった。
 通せんぼをするように玄関に立ちはだかった白石は、眉間に深い皺を刻んで謙也を睨んだ。謙也も睨みつけられたからと言って退くわけにはいかない。無言で睨み合ったまま、数分が経過していた。
 先に口を開いたのは、白石だった。
「いやや」
 憮然とした表情のまま、ふるふると首を振る。謙也は白石を睨みつけたまま、低い声を発した。
「何がやねん、はよどけ」
「いや。ガッコーとか、行かんでええやん」
「よぉないわ!」
「ええーーー」
「うわ、何かむかつく」
「なあケンヤー。おってや」
「あかんのやって」
「なんで? ガッコと俺とどっちが大事なん?」
「何やねん急に。カノジョか、お前は」
「やって……」
「……帰ったら遊んだるから、な」
 謙也は口ごもる白石の頭の上に手を置くと、くしゃくしゃと優しく銀の髪を乱した。白石は嫌がる素振りもなく謙也の好きにさせていた。怒気が削ぎ落とされた顔に表情はなかったが、喉が喜びを唄ってごろごろと鳴っていた。細く柔らかい猫毛は、脱色を繰り返してきしきしに傷んだ自分の髪とはまったく違う感触で、心地が良かった。彼本人に告げたことはないが、彼の美しい毛並みに触れるのはとても好きだ。

 つい夢中で髪に指を遊ばせていると、白石の手が謙也の手首を掴んで、髪から引き離した。
「わかった。待ってる」
「おう、偉いやん。ほな、行ってくるな」
 白石はいじけた子どものような表情だったが、それ以上食い下がりはしなかった。代わりに耳と尾がぱたぱたとせわしなく動いている。やけに聞き分けのいい白石に僅かな驚きを感じながら、謙也は白石の横を通り抜けてドアノブに手をかけた。
「ケンヤ」
「んー? ……っ!」
 突如呼び止められた謙也は、ほとんど条件反射で振り向いた。しかし、思っていた以上に白石の顔が、瞳が、長い睫毛が近い。それもそのはずで、謙也の唇には何か柔らかいものが押し当てられていた。その正体は考えるまでもない。謙也は顔が火照るのを感じながら、白石を睨みつけた。白石は謙也の目を見つめ返したまま、穏やかに目を細めるだけだった。

「……んや、……!」
 一瞬解放された隙に咎めようと口を開くと、素早く白石の舌が口内に挿し込まれた。ぬるりとした肉が粘膜を擦って滑る。他人――人、といっていいのかわからないが――の舌。謙也の17年と少しの人生のうち、最後に恋人がいたのは高2の冬で、バレンタインが来る前に別れてしまった。それ以降はフリーだった。他人の体温。唾液。久しく味わっていない感覚だった。たちが悪いことに、彼が器用なのは手先だけではなかった。彼の巧みな舌遣いに翻弄され、相手がオス猫であることなんてすっかり忘れて甘いキスに没頭する。
「ん、んんんっ」
「ケンヤ」
 熱い吐息とともに囁かれた声が濡れた唇を撫で、背中と後頭部がドアに押し付けられる。謙也の身体は不安定な快楽と未知への期待にぶるりと震えた。謙也がぎりぎり酸素を吸い込むとすぐにまた唇を塞がれて、口内を犯される。身体の奥で、忘れかけていた劣情が燃え上がる。謙也はぎゅっと瞼を閉じた。
 白石の舌はザラザラしているせいか、今まで経験したどんなキスより気持ちよかった。口内の粘膜をざりっと撫でられると背筋が震え、今にも膝を折りそうになる。
「ふ、ん、んう……っ」
 ふたりの間でちゅく、と水の泡立つ音が耳障りだった。唾液が絡まり合って混ざり合う様を想像すると、たまらなかった。堅く閉じていた瞼を僅かに持ち上げると、白石の白い肌に長い睫毛が陰を落としている下で深い茶色をした瞳がじっと謙也を見つめていた。吸い込まれるような瞳から目が離せない。見つめ合ったまま口内をまさぐられ、舌をきつく吸い上げられる度に胸を甘い感覚がせり上がるのを感じた。
 これ以上はヤバイ。自分の中で膨れ上がる感情が恐ろしくなり、謙也は再び瞼を堅く閉じた。

(何やねん、こいつ。猫のくせに。信じられへん)
 白石を引き剥がそうとシャツの背を握り締めて引っ張るものの、彼の身体はびくともしない。意外と力があるのだ。悔しいことに、自分より筋肉もある。
 しかし一番信じられないのは、猫のくせに飼い主に襲い掛かる白石ではなく、嫌悪感を感じていない自分だ。

 何も考えられなくなって身を委ねかけた頃、白石は謙也から離れた。息を弾ませながら、白石の戸惑いを滲ませた目を見つめた。
「っ……お前、あんま調子乗んなや……」
「ごめんな。学校……行くやろ? いってらっしゃい」
「……おん」
 微妙な空気にむずむずしながら、謙也は白石から目を逸らし、乱れた衣服を整えた。
「いってくるな」
 白石に背を向け、ドアノブを握る。もう一度、不安になって白石を振り返るが、彼は既にこちらに背を向けていた。忙しなく揺れる尾が、更に不安を煽った。

「白石」
「……ん?」
 部屋の奥へと向かっていた白石が足を止めて振り返ったが、結局喉まで出かかった言葉を飲み込み、「何でもない」と誤魔化した。