アニマ -1
良い匂いがして、寒くも熱くもなく、持っている力を使う必要すらありませんでした。
人間らしくない人間達が享楽と快楽の中で酷く退屈していて、頭に咲いたバカみたいな花を揺らしながら空中に漂っているような世界です。
僕だってそれはもう退屈でした。強制的に思考が停止してしまうような享楽の中で、退屈するなという方が困難でしょう。人間は苦しいからこそ考え、辛いからこそ思考の停止を考えるのです。
筋肉は衰え、怒るような出来事も悲しむような出来事も起こらないので笑うことしかできなくなります。我々は本当のバカになり、思考をすることもなくすべてを知るのです。怠惰ですね。
当然僕は何かをすることもなく、ぼんやりと日がな一日過ごすのです。何もすることがなければとりあえず近くにいる人間に声を掛けてなにかのゲームに興じるのです。碁だとか将棋だとかカードだとか。でもそんな欲を取り上げられた人間同士でゲームをしたって、退屈が増すだけです。
とにかく死ぬまでの時間つぶしを探すような生活をしていました。そしてそれはいつもあまりうまくはいかないのです。
僕は、同じように退屈していた少年に出会いました。僕らは退屈を分かち合い、退屈だと言い合いながらお互いを慰めていました。
思えばその時僕が感じていたのは少年への愛情であった訳なのですが、そのときはそんな事など考えられもしなかったので、僕はなぜ彼と一緒にいたいのか分かりませんでした。少年といれば、少なくとも退屈はしないですむからだと思っていたのです。愚かにも。
気の遠くなるような長い長い生の末に、ぼくはやっと自分が死につつあるということを感じました。花は萎え、色はくすみ、汗や垢の所為で悪臭を放つようになり、天界にいるのを好まなくなるようになりました。それはいままでこの世界で死んできた人間達に当てはまる兆候でした。
僕はそのとき初めて苦悩しました。永久に約束された退屈が、一瞬で取り上げられてしまったからです。
「どうやら僕は死ぬようです」
僕は少年に話しかけました。少年は僕を疎むと言うことはありませんでしたが、それ以外の感情も見えませんでした。初めて彼の顔を見てぞっとしました。無表情です。能面のように無表情だったのです。僕は愕然としました。僕も少しまえまであんな顔をしていたのかと思うと。
「そのようですね」
少年は言いました。僕は胸に思い針が刺さったような痛みを覚えました。僕は傷ついたことなんて無かったので、初めて悲しい、と思いました。
僕はついに死の床に就きました。大勢の人間達がその徳の高さから僕を見舞い、ねぎらいの言葉を掛けました。僕も誰かが死ぬと言うことになった時にはそうしてきましたし、なんら不自然ではないことでした。
けれども、僕はそれを見て、本当に笑い出したい衝動に駆られました。苦悩を知らないねぎらいなど、軽薄で滑稽意外のなにものでも無かったからです。
最後に、少年が僕を訪ねてきました。
「来世でもどうぞよろしく」
少年は感情の読めない声で言いました。
「よろしくおねがいします」
僕は答えました。少年はそのまま去ろうとしました。しかし、僕はほとんど衝動的に彼を引き留めました。
「どうしたんですか」
「いいえ、ただ……そう、君にだけは伝えたかったのです。僕は今この瞬間、初めて生きていることを実感しました。苦悩も痛みも感じます。悪臭も放つし、こころは醜く汚れきっています。けれども、それが生きるということだったのでは無いでしょうか。死の直前に立って初めて生きた心地がするというのは、皮肉なはなしです」
少年は少し分からない、といった顔をしました。僕はそれでもかまいませんでした。
目を閉じると、暗闇が訪れました。機械音がかたかたと鳴っていました。
「やあ、またあなたですか」
機械仕掛けの仏は何も答えませんでした。
「何度も言うようですが、僕は救いなんていらないんです」」