無題2
副長室にのっそりと入ってきた総悟は、仕事を手伝うでもなく俺が休憩に入るまでただぼんやりとくつろいでいたのだけれど、あつい緑茶の湯飲みを片手に一息吐いた俺に爆弾を投下しても涼しい顔のまま、俺の隣に座っている。その横顔を、訝しげに、そして不躾に見つめ続けていると総悟が口元をふっとゆるめて俺の方へと視線をあげた。そして、
『来むといふも来ぬ時あるを 来じといふを来むとは待たじ来じといふものを』
そして、先ほどの呟きを、もう一度静かに口に繰り返したのだった。
「…なんだ?」
「あんたには一生理解できない歌でさァ」
「だから、なんでいきなりそんな歌が出て来たんだって聞いてんだけど。」
「はい、これ」
問いに返答はもらえず、会話はかみ合わないまま流されていく。
一昔前の告白みたいに、几帳面に折りたたまれたまっしろい紙片を俺の心臓の上にきゅうきゅうと押し付けて総悟は、俺を促すように軽く首をかしげる。とりあえず受け取って何気なく指先で反転させると開封済みだとわかっておもわず眉根が寄った。土方様。宛名にはちゃんとそう書いてあるのに。
罫線の上に丁寧に並ぶ文字を、俺が目で追う速度で総悟が横から諳んじる。そういうきわどい行為は出来ればよしてほしかった。まるで手紙の送り主が、今俺の横に居る、こいつからだと錯覚しそうになってしまう。もちろん総悟に、手紙にしたためられている様ないじらしさが備わっていないことは重々承知の上だけれども。
手紙の送り主は一時期頻繁に通った花街の娘だった。
総悟の検閲に見事クリアした健気な文面には、足の遠のいている俺を待ちわびている、という、だいたいそんな旨の言葉が綴られていた。そういえば、最後に出かけて行ったのは一体いつの頃だったろうと、記憶を探る必要が出てくるくらい時が流れた。同時に、最後に総悟を抱いたときの記憶も、もうずっと奥の方に押しやられてどうでもいい最近の出来事に上書きされてしまう寸前。
そのことに、俺の胸の内にはよくない感情が渦巻くというのに、俺をそんな気持ちにさせた総悟の方は他人事だとでも言いたげに知らんぷりした顔のまま俺の隣に座っている。澄ましてじっと座っているのは総悟の得意中の得意技だった。
「巡回中に呼び止められやしてね。姐さんから、あんたに渡してくれって言われて受け取ってきやした」
「いちいち受け取ってくんなよな、めんどうくせえ」
「そうやって罰当たりなことを言ってるから、あんたにはわからないんだ」
何が、と。
問おうとしてやめる。
目的語をあえて隠した総悟はそれ以上言葉を続けずゆったりと目をとじる。
掌に収まる薄い手紙を大事に懐へ。そして俺も総悟に倣って目をとじた。
仕舞い込んだささやかな好意を、隊服越しに押さえて思いを巡らす。返事などもとより必要とはしていない。紙に綴った言葉を返すより、実際に訪れ顔を見せることが要求されているのだから。
───それじゃあさっそく今夜あたりにでも。
すっかり卑屈になった頭で予定を立てていると、懐へ添えていたのとは逆の方、畳にほうっていた手にひんやりとした手が重ねられて思考が途切れる。目を開けると、目をつむる前と寸分も違わぬ光景が目の前にちゃんとある。書類の山やら硯やら湯飲みやら。
なんだかなあと妙に脱力していると、総悟は低空飛行な俺にさらに追い打ちをかけた。
「行っちゃァ嫌ですぜ」
総悟は俺の方も見ずにそれだけ言った。照れるでもなく、懇願するでもなく、いたって平坦な声で。そのセリフを、自分が相手に向かって言うことは至極まっとうなことだと、ただそれだけ信じている声色で。
こちらは盛大に溜息をつく。
「歌の意味、分かってねェのはお前の方なんじゃねェの」
「へ?」
「待たせるのは得意だけど、待つのは嫌いっつーかそもそも待つことをしないだろう、お前は」
「よく御存じで」
「そりゃ知ってるわ。どれだけ俺が振り回されてると思ってんだよ」
「けど、まだまだ足りない」
「あ?」
「こっちの話です」
澄ました横っ面に腹が立つ。けれど、重ねられたままだった手を、一度払って今度は俺の方から、少し強く握ってみても総悟は予想の範囲内だとでもいわんばかりで眉ひとつ動かさない。主導権はいつだって俺ではなく総悟にある証拠。そして俺は、つくづく救われない哀れな男なのだ。
「姐さん、ちょっと泣きそうで、すごく必死な様子でしたぜ。そりゃあそうですよね。一時期は三日と明けずに通った相手が、ある時突然来なくなったんですもんね」
「元凶が何言ってやがる」
「あぁでも俺なら、あの姐さんみたいな恋は絶対しないなァ」
「は?」
「相手に振り回される恋は、俺らしくねえから」
それじゃあどういう恋がお前らしいんだ、なんて。
答えなんか知っていたし、わざわざ聞きたくもなかった、というか、聞くべきじゃなかった。のに、会話の流れからしてうっかり問いかけてしまった、俺は本当に浅はかだった。
総悟が、待ってましたといわんばかりに桜色のくちびるに言葉を乗せる。
「いっぱい甘やかされる、尽くされる、愛される」
やっぱりさっきのは失言だった。おもっくそ墓穴を掘った。
駆け引きもはったりの契約も、するするとこなすくせして穢れた行為も邪な感情も、なんにも知らないみたいな透明な目で俺を見る、総悟をまっすぐ見つめ返して今更気が付く。
「なんかハードル上がった感じ…?」
「何がですかィ」
「…こっちの話だ。」
苦りきった俺を、総悟がじっと見つめている。その視線から逃れるように、握った手にさらに力を込めて引き寄せた。腕の中におさめて、それでもやっぱり俺に主導権は移らない。
(まぁ、良いけどな。)
もう一度溜息を吐いて、顔を上げた総悟の頬に手を添えた。
煙草の匂いが染みついた胸元で、上目使いに俺を見る総悟の口元は弧を描いていて確信犯。