青畳
冷え切った隊服の襟元を緩め、土方はひとつ息を吐いた。外に出る前よりも強くなった酒の匂いが、むわりと鼻先を掠める。おおよそが飲み潰れたのだろう。心を浮き立たせるような酒の匂いとは裏腹に、辺りはひっそりと静まり返っていた。
その静寂に気遣うどころか、むしろわざと打ち破るくらいの勢いで、彼は襖を開いた。冷たい冬の夜の空気が、温まった屯所の中にするりと入り込む。
ずかずかと畳の上に踏み込んだ土方が、足元を見やる。新年を迎えるに併せて替えた真新しい畳の上に、空の一升瓶がひとつ倒れている。
そして、隣に転がる人影ひとつ。
「総悟」
土方が呼びかける。さほど大きな声ではなかったが、その一言で、畳の上で惰眠を貪っていた沖田が、ゆっくりと目を開いた。
畳に伸びた土方の影を、沖田はぼんやりとした目で追っている。月明かりのせいで頬は白いが、恐ろしい量の酒を飲んでいたことくらい、土方だって分かっている。影の足元に佇む土方にまで視線を向けた沖田は、二度、三度と瞬きをした後、盛大に顔をしかめてみせた。
「何でィ、まだ生きてやがったか」
まるで可愛げのない言葉に、土方は別段気分を害する様子も見せず、どっかとその場に腰を降ろした。酒の匂いに混じって、新しい畳独特の青臭さが、辺りに立ち込めていた。
「こんな所で寝てたら、俺より先にお前が凍死するぞ」
この酔っ払いめ、と付け加えて、取り出した煙草に火を点ける。煙の匂いに、すん、と沖田が鼻を鳴らした。
「誰が酔っ払ってるってんでィ、二人に分身して説教しやがって」
「明らかに酔ってんじゃねえか!」
そう吐き捨てると、土方は沖田の左手の辺りを指差した。畳に寝転がったままの沖田が、そばにあった灰皿を引っつかみ、畳の上を滑らせた。真新しい畳を傷つけたら、などという考えは欠片もないようだ。
灰皿の上に灰を落として、ゆっくりと煙を吐き出す。無言のままで眺めていた沖田が、思い出したように口を開いた。
「で、マムシの残党とやらは捕まったんですかィ?」
問い掛けに、土方は首を横に振った。
「いや、それらしいトラックが海に落ちたって話だが、うちの管轄じゃねえ」
土方の答えに、ふうん、と沖田は呟いた。ゆるりと伸ばした手で、空の一升瓶を掴む。
「つまんねえなァ」
煙草を咥えたまま、土方は沖田を見た。腑抜けた酔っ払いの風体をしているくせに、その目だけが異様な輝きをたたえている。
「土方さん」
妙にはっきりとした声で、沖田が呼びかける。ざり、と嫌な音を立てて、掴んだままの一升瓶が畳を撫でた。
「一本手合わせ願えませんかね」
ぎらぎらと光る目が、真っ直ぐに土方を見つめている。薄く笑った唇が、正気と酩酊の狭間を見せている。年の割に骨ばった指が、一升瓶の首を掴んでいる。その指先に、薄暗い興奮を秘めていることに、土方は気付いている。面倒なヤツめ、と胸中に呟いて、彼は再び灰皿に煙草の灰を落としたた。
「断る。酔っ払いの相手なんかしたかねェ」
「だから酔ってなんかねえっての土方コノヤローとうとう三人に分身しやがって」
「へいへい」
最早構うつもりもないといった様子で呟き、土方は隊服の上着を脱いだ。その上着を、寝転がったままの沖田の上に放り投げてやる。頭から上着を被ることになった沖田が、うぶっと声を上げてもがいている。
「さっさと寝ろ。三が日過ぎたら嫌でも仕事だ。風邪ひいてる暇なんかねえからな」
灰皿を部屋の隅に寄せて、土方が立ち上がる。ようやく上着から顔を出した沖田が、嫌そうな顔をしながら吐き捨てた。
「真面目なこって」
「つまんねえんだろ?」
呟いた土方に、沖田が探るような視線を向ける。それに煙草を咥えたままの唇を少しだけつり上げて見せると、風呂、と呟いて、彼は部屋を出て行ってしまった。
残ったのは、煙草の匂いと土方の上着、そして畳の上の沖田だけ。
離れていく足音を聞きながら、そういやアイツ何しに来たんだ、と今更ながら沖田は思う。大分酔いのひいた頭が、ぐるぐると回転を始めるが、思いついたものはすぐに霧散していく。低く伸び上がるような除夜の鐘が聞こえる。あれが良くない。あの音が、頭に浮かんだ考えを、ひき潰すようにして散らしていく。
「煙草臭え」
土方の上着を放り出して、沖田は小さく欠伸をした。冬の冷たさが体に染みてくるのと一緒に、眠気までやってきたような気がしていた。
目が覚めたら初詣にでも行こう。行って、せいぜい土方の不幸でも願ってやろう。それは案外に愉快な想像で、彼は楽しそうな顔をして、ゆらりと畳の上に立ち上がった。