仲良しお靴
朝目覚めた時から体が軽くてすぐにでも走り出せそうな程だったし、それを裏付けるように練習では自分でもこれは、と思う投球が出来た。受けていた秋丸も「ナイスボール!」「球走ってるよ!」「今のスライダー、いいねえ!」と大絶賛だったくらいだ。
あー、野球って、面白えな、ピッチャー最高に楽しい! なんて当たり前のことを今更ながらに実感したりして、そうなると急にタカヤに会いたくなった。
思い浮んだのはいつもの不機嫌っぽい仏頂面だけれども、それがマスクをかぶってキャッチャーボックスに立った時、ちゃんと野球の顔になるのを榛名は知っている。
タカヤ、タカヤ、タカヤ。
榛名の頭はタカヤでいっぱいになってしまった。タカヤからは、防具を脱いでいてさえどこか野球の匂いがする。
多分、その身を切り刻んで開いたら、中身は野球ばかりじゃないかなあ、なんて無邪気に夢想する。榛名はタカヤがとても好きなので、そんなことはしないけれども。
会いたくてたまらなくなって、練習が終わるとすぐにメールをした。
「あいたい。今日あえるか?」
返事が来るまではとても携帯を手放せず、左手に握り締めたまま服を着替えるのは大変だった。お前、なにやってんの、なんて周りからは呆れられたけれども、まるで気にならなかった。
ワイシャツのボタンを苦労して止めて、さすがに片手でネクタイを締めるのは難しそうだと思ったあたりで、手の中の携帯が震えた。
榛名は薄いブルーのネクタイを放り投げて、慌てて携帯を開く。
「今日は練習早く終わったので大丈夫です。うちに来ますか?」
タカヤの返事はいつも通り短かった。けれども、榛名の欲しい答えの全部がつまっていたので、うれしくなってしまう。
「いく。もう着替えた。いまからすぐいく」
気持ちばかりが急いて、うまくボタンを押せない。たった十数文字の文面を作るのがひどく難題に思えた。
ようやくのことでメールを送信して、脱いだユニフォームをバッグの中に詰め込んでいると、今度はさほど待たずに返事が届いた。
「今日は親がいないんで、晩飯とかは期待しないでくださいね。じゃあ、待ってます」
それから榛名の行動はすばやかった。荷物の中身も確認せずにバッグを肩にかけると、っした! と叫んで部室を飛び出す。
駅まではダッシュで駆け抜けた。もしかしたら自己最高記録かもしれないぐらいのペースだった。
電車に乗っている時間はもどかしかった。車内でいくら足踏みしたって、電車が速く着くわけではないと分かっているのに、落ち着かなくてうずうずしてしまう。
榛名は駅からタカヤの家までの最短コースを頭の中でシュミレーションして、その時間をやり過ごした。
タカヤの家に着いたとき、榛名はもう汗だくだった。
息はあがっていたし、汗でシャツが体に張り付いていたけど、そんなことは全部どうでもよくなるほど、榛名の心も体も全部がタカヤに向かっていた。
インターフォンを押して、返事を待たずにドアを開けて叫ぶ。
「タカヤ!来たぞ!」
奥の方でタカヤの声がするのが聞こえる。
どうぞ、とか上がってください、とかそんな事を言っているようだ。
いつものように大きな靴を脱ぎ捨てて、上がり框に足をかけたところで、榛名はふと思い出した。
そういえば、タカヤはいつも、靴はちゃんと揃えてください、と言っていた。
タカヤはどちらかというと雑な人間だと榛名は思っているが、変なところで神経質だったりする。
靴を揃えろにはじまって、やれバッグの中を整理しろだの、口ん中にもの入れたまましゃべるなだの、ガムはちゃんと紙に包んで捨てろだの、うるさい。
そのうるさい言葉のほとんどを聞き流している榛名だったが、今日はとびきりいい気分だったので、珍しく言うことを聞いてやろうかという気になった。
一度脱いだあと、わざわざ屈んで靴を揃えて向きを直すのは面倒くさい。
タカヤなどはそれくらい何が面倒なんですか、と言うけれども、習慣づいていないことをやるのは、億劫なものなのだ。
その煩わしさを堪えて、三和土の上で靴をきちんと並べると、榛名の胸にはとても大きな仕事を成し遂げたかのような達成感がこみ上げてきた。
「タカヤ!タカヤ、ちょっと来いよ!」
早くタカヤにも見てほしい。それから、よくできましたねって誉めてほしい。
タカヤは年下だから、ほんとはそんなことを言うのは生意気だって怒るところなのだけれども(実際タカヤは本当に生意気だ)、でもタカヤになら特別に許してやってもいい。
なぜならタカヤが誉めるということは、好きだ、と言っているのと同じことだからだ。
お世辞だとか、嘘だとかを言わないやつだから、あいつが人を誉めるときは本当のことばかりだ。
何度も何度も呼んでるのに、中々姿を現さない相手に焦れて、榛名はとうとうどたどたと足を踏み鳴らしはじめた。
小さな子どもが駄々をこねる様子そのものだったが、それをみっともないと思う気持ちよりも、タカヤに会いたい気持ちの方が強いのだから仕方がない。
「どうしたんですか、そんなに騒いで」
近所迷惑だから静かにしてくださいと言いながら、やっとのことでタカヤが現れた。
おそい。もっと早く来いよって怒りたかったけれど、今怒ったら誉めてもらえなくなりそうだったので、榛名は我慢してやることにした。
「タカヤ、これ見ろ!」
榛名がきれいに揃えた自分の靴を指差すと、タカヤはまず榛名の指をじっと見て、それからその先に視線を落とした。
「ああ……」
「なんか言うことあるだろ」
えへんと自慢げに胸を張ってそう告げる。
タカヤは不意に、ほんの少しだけ笑った。いつもタカヤがまとっているきっぱりとした色がその瞬間少しゆるんで、やわらかくなる。
やわらかいタカヤが出す声の温度を想像して、榛名は期待に胸を高鳴らせた。
「靴が仲良しになってますね」
「へ?」
「元希さんと俺の靴」
言われて見下ろすと、確かに大きな大きな榛名の靴と、それより一回り小さいタカヤの靴が身を寄せるようにして並んでいる。榛名は笑い出してしまった。
「すげえ」
いつも大人ぶった口調で生意気なことばかり言うタカヤの口から、靴同士が仲良し、だなんて子どもっぽい発想の言葉が出てくるのがおかしい。
おかしくて、それからなんだか、タカヤをぎゅーってしたいような気持ちがこみ上げてくる。
「俺ら靴までらぶらぶじゃん」
な! と言って笑いかけると、タカヤは素直に頷いた。
これも少し珍しい。大抵の場合、タカヤはこういうことを榛名が言うと、照れたり怒ったり、あるいはそのまま聞き流したりするのに。
「いつもこうだとうれしいです」
それには榛名も賛成だった。いつも仲良しなのがいい。
「おう、まかせとけ!」
大きな声で宣言して請け合うと、榛名は靴などに負けるものかとばかりにタカヤを引き寄せた。