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【東方】夢幻の境界【序章】

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握った手は温かく、弱々しくも優しさに満ちている。
 布団の中でこちらを見上げる老婆の顔は、若かりし日の面影を残している。だが、女にとってはほんの数日前のように思い出せるあの頃の姿は、今はもうそこにはなかった。
「――――」
 わずかに口を動かした老婆に、女は少しだけ顔を近づけた。
 老婆が握る手に僅かだが力を込めると、小さく笑った。
 女はその手を握り返し、老婆の頬に手を伸ばした。
 しわくちゃになってしまったが、いつも隣で見ていた愛しい顔は昔と変わらぬ笑顔を向けてくれた。
「どうしたの?」
 言って、女も笑顔を返した。
 老婆はそれを見ると、どこか満足気に微笑んだ。
 だが、女は何のことか分からず首をかしげた。もしかしたら、さっき口を動かしたように見えたのは、「笑って」と言っていたのかもしれない。そう考えると、さっきまで自分はどんな顔をしていたのだろうか。心配されるほど情けない顔をしていたのだろうか。ともすれば、老婆が「どうしたの?」と聞き、女が同じ言葉を聞き返してしまっていたのかもしれない。しかし、そうなると満足そうな表情の理由が分からない。
 女は老婆に笑った理由を聞こうと口を開き――しかし、開いた口は何も語ることなく閉じた。
 頬を撫でる手で老婆の前髪をかき分け、こちらを見る優しげな目を見つめる。
 まったく、なんて無粋なことを考えていたのか。
 女は自嘲気味に笑うと、老婆に囁いた。
「おやすみなさい」
 老婆は微かに頷くと、ゆっくりと目を閉じる。
 女は老婆の頭を撫で、その後、額にキスをした。
「さようなら。いつか、またここにいらっしゃい」
 女が顔を上げた頃には、老婆はもう二度と目を開くことはなかった。



 縁側に座る女の髪を、夜風がなびかせる。
 金糸のような美しい髪は、月の光を浴びて夜空に輝く星のようにも見える。
 ただ、月の光で輝いているのは髪だけではなかった。
 女の頬を涙が伝い、きらきらと光りながら膝へと落ちる。
 しかしそれを拭うこともせず、女は縁側に座りながら月を見上げていた。
 千年以上も昔から見ている月は変わることなく女を照らしているというのに、周りにいる者たちは瞬く間に変化していく。
 流れるような美しい黒髪は白くなり、軟らかくたおやかな手はしわだらけになっていく――そんなことを、あとどれだけ見守り続けなければならないのか。
 女はうつむき、顔を両手で覆った。
 止まることのない涙は手のひらを濡らし、指の隙間から滴となって落ちていく。
「……」
 どれくらいそうしていただろうか。微かに聞こえていた虫の鳴き声は止み、涙もいつの間にか止まっていた。
 女は顔を上げると、頬を濡らしている涙を袖で拭った。
 ふと右を見ると、そこには見慣れた人影があった。
 人魂を纏い屹立する女性は、静かに歩み寄ってきた。
「幽々子? どうしてここに……」
 幽々子と呼ばれた女性は、女の側まで歩み寄り、普段とは違う表情でこう言った。
「紫、あなたに話したいことがあるの」



 視界が徐々に掠れ、煙に包まれるかのように世界が白で塗りつぶされていく。
 知るはずのない――だが確かに記憶にある光景がよく知る人物の記憶だと気付くと同時に、それは霧が晴れるかのようにかき消されていった。
 そして白の世界に一筋の光が差し込み、少女は目を覚ました。いままで見ていた彼女の記憶を全て忘れたままで。