他意はありません
他意はない。
そう、例えばこうして練習のあとにお互いに都合をあわせてなんとなく会うようになったのも、他に理由はない。
阿部は時折この二人の状況を不思議がるが、榛名にしてみればその阿部の疑問の方が不思議だった。見下ろした目線の先にある小さな頭で、今日も榛名の後輩は難しくあれこれ考えているのだろう。
そんな事を思いながら歩いていた夜の道だった。もう、所々にある街灯がなければお互いの表情もよく分からない。
不意に会話が途切れて、沈黙がおちる。それ自体は別段珍しいことではなかった。二人の間では会話のない時間の方が長いこともままある。
だからといって、この時間にまったく意味がないわけではなかった。その証拠に、一緒に帰る道のりの、二人の分かれ道に来たところで立ち止まったまま、阿部はもどかしげにこちらをじっと見上げている。
タカヤときたら本当にしょうがない、と榛名は思う。
唇は一文字に引き結ばれたままだが、それは黙っていたいからではなくて、言葉が見つからないからだ。目はありありと、このまま別れるのはなにか物足りない、と語っているのに、それを伝える方法が分からないようだった。
わざと気づかないふりをして、どうしたんだと榛名も視線を返せば、眉間にきゅっと皺を寄せる。口を開きかけて、また閉じてしまう。一瞬見えた口内の赤い色が、榛名の頭にはやけに残る。その味を、まだ知らないからだろうか。
阿部に一度でも会ったことのある榛名の知人は大抵、彼のことを「しっかりしている子だね」だとか「榛名、尻にしかれてるんじゃないの」だとか言う。
実際、阿部は口も達者で、いつも小さな頭で小難しいことを考えているから、時々年下ということを忘れそうになることもある。しょうがないですね、などとあれこれ世話を焼いてくるのを好きにさせているから、どっちが先輩だか分からない、とまで言われる。
こんなにチビなのに、とは思っても言わない榛名だった。榛名の高校には阿部と同じくらいのサイズの先輩がいるからだ。
けれども、そんな風にしっかりして見えて、実際のところはまったく子どもなのだ、ということを榛名はもう知っている。野球バカはこれだからいけない、と自分のことを棚に上げて考えた。
「じゃーな」
どこまでいじわるができるだろうか、と思いながら榛名はそう言った。阿部の気持ちを分かっていて、それを裏切るのは気持ちのいいことだった。
だって、今みたいに、まっすぐに向けられた目線の、わずかな目の玉の動きを見るのはひどく楽しい。それが、阿部が榛名のことを考えているからこそなのだと思えば、なおさらたまらなかった。
「あー……、じゃあ」
迷うそぶりを残したままで、阿部はそれでもそう言った。
馬鹿なやつ。
榛名は、そう思う。とっても仕方がないやつだから、榛名は折れてやることにした。
「ターカヤ。喉かわいた!」
「は?」
「あっち自販機あったよな。行こーぜ」
榛名がすたすたと歩き始めると、後ろから、帰るんじゃなかったのかよ、と言う声と、自転車のタイヤが回転するカラカラという音がついてくる。
「お前なんにする?」
自分用に缶コーヒーを買った榛名は、続けて小銭を投入しながら、顔だけ振り返って尋ねた。
「別に、オレは喉乾いてねーし」
「そっかー、タカヤはしるこドリンクかあ。あちーのに物好きだなー」
「ちょ」
ボタンを押そうと指を伸ばした榛名の腕を、阿部が掴んで止めた。
「もったいないことすんなよ! あんた飲む気ないんだろ!」
「だって、これタカヤの分だし」
「しるこはお断りです!」
「じゃー、何がいいんだよ」
早く決めろー、と榛名が言うと、阿部は皓々と光る自動販売機に向き直った。
「ふつーに、ポカリで」
「はいはい」
榛名が右手でボタンを押しているのを見て、阿部は榛名の腕を掴んだままだったことに気がついた。すみません、と言って、慌てて手を離す。
気にすんな、なんなら、腕を組んでやってもいいぞ、と榛名は胸のうちだけで思った。きっと阿部は照れていやがるだろうから、そんな阿部と無理矢理腕を組んで歩くのは楽しいかもしれない、と思う。
「あの、お金」
「あー、いーよ今日は。めんどくせ。今度ん時はお前がおごりな」
「はあ」
阿部はうなずきながら、ペットボトルのキャップを開けた。飲むとなったら遠慮はしないやつだから、思い切りごくごくと飲んでいる。
な、喉、かわいてたろ。
なんでそんなに喉かわくか、お前わかってる?
さっき、お前が当たり前みたいに聞き流した「今度」を、結構考えていつも用意してんの、気づいてっか?
そんで、一緒にいる時間が延びて、ちょっとうれしそうになったの、自分で気づいてんの?
「タカヤー、お前まだ時間大丈夫なん?」
榛名は知っていて、意地の悪い問いを投げてやる。本当は、榛名だって、もう帰って晩飯を済ませてなければならないような時間になっている。今日はまだ週の真ん中で、明日もまた、学校も部活もあるのだ。
「あー……」
すぐに答えが出ない時点で、分かりそうなものなのに、と榛名は思う。野球ダイスキなお前が、それより優先するものがあるって、それだけで特別なんだって、分かるだろう。
「じゃあ、これ、飲むまでで」
ペットボトルの底に、あとほんの少しだけ残った液体を揺らして阿部は言う。
往生際が悪いのだ。本当に、仕方ないやつだな、と思いながら、榛名は阿部の手からペットボトルを奪ってやった。飲み干してしまえないように。
阿部が榛名を見上げて、そうしてようやく、その目の中に答えを見つけたらしかった。
そう、他意などないのだ。こうして榛名が阿部に会う理由も、今、阿部が顔に上る熱に堪えかねて、あえぐように息をもらしたのも、他に意味などあるはずがなかった。
二人がお互いに恋をしている、という理由以外には。