ハジマリ
それは、幼い頃に聞いた鈴の音。
上も下も、右も左も見えない真っ暗な世界。
見えないけど、辺りに居るナニカの気配が色濃く、突き刺さる様な視線が恐ろしかった。
暗くて寂しくて、何よりどうやってその場所から抜け出せるのかが解らなくて、膝を抱えて泣いていた時に初めて、あの音を聞いたのだ。
暗闇無音だった世界に訪れた唯一の音。
必死に追いかけて、懸命に足を動かし…気付いたら家の庭に一人で佇んでいた。
聞けば4時間、行方が知れず両親を心配させていたらしい。
その後も数回、家の近くで道に迷ってしまったが、その度にあの鈴の音に導かれ、帰ってこられた。
時には誘うようで、時には咎めるような音で。
何度も助けてくれた音だが、成長した今は全く聞かなくなってしまったけれど…。
迷うことがなくなったことは嬉しいが、あの音を聞けないのことが寂しくもある。
そんな日々を送っていた。
―ピピピッ、ピピピッ、ピピp
鳴り響く目覚まし時計。
その音を止めたのは子供の手だ。
いや、語弊がある…その手は確かに大人のそれではないが、幼子特有の柔らかさやプクプクとした形でもない。
かといって完成された大人の、ゴツゴツとした男の者でもない…成長途中の男の子の手だった。
少年の名はナナシ。
今年の春に高校へ進学したばかりの高校生である。
8月も終わりの今、新学期が始まり今だ抜け切らぬ休みボケと戦っている真っ最中だ。
「オカーン、俺もう学校始まってんねんで?なんで朝メシあらへんの。」
「お母ちゃんかて寝坊すんねん、しゃーないやろ!あとでご飯代渡すから、もうそのまま学校行き。」
逆ギレとも取れる見送りを受け、ナナシはアスファルトからの照り返しが強い通学路を歩く。
「あー、あっついなぁ…。」
夏休み中はエアコンの効いた部屋で寛いでいたのに、これから向かう場所には扇風機すらない…気分は沈む一方だ。
「(…サボったろうかな。)」
そんなことを考えていたら……。
「ふぐごぉっ?!」
障害物など何もなかったはずなのに、ナナシは何かと正面衝突した。
吹っ飛んだ。
腹部から胸部にかけての範囲に鈍痛が走る。
この衝撃は、以前クラスメイトからお見舞いされたタックルに近いものがあった。
ドサッと地面に背面着陸し、あまりの痛さに口からアガガと妙な音が出る。
更に…。
「んっが!?」
口の中にビー玉の様な物が落ちてきた。
しかも、仰向けに倒れていたせいで、驚いた拍子に飲み込んでしまった。
「んな、何やねん?!」
咽を通った異物感に慌てて咳込むが、後の祭り。
飲み込んでしまったものは出てこなかった…。
そこで、ふと気付く。
「(俺、今誰とぶつかったんや?)」
物と人とではぶつかった時の感触が違う。
アレは確かに人のソレだったと、ナナシは上体を起こす。
やべぇ、やっちまった…。
起き上がった視線の先に、そんな顔をした少年が突っ立っている。
「…え、と。君、大丈夫?」
自分よりも小柄な少年に吹っ飛ばされたことに悔しさとやる瀬なさを抱きつつも、先ずは相手のことを気遣ってみた。
我ながらナイスな行動だとナナシは自画自賛する。
「ふえっ?」
だが少年は奇声を上げた。
ナナシに声をかけられるとは思っていなかったという様子に、ナナシは眉をしかめる。
「ど、どどっどどうしよう!」
アワワワワと慌てたと思いきや、少年はナナシが一度瞬きをした間に綺麗さっぱり消え失せていた。
「え?へ?」
そのまま数秒呆然としていたが、遠くから聞こえるチャイムの音に己を取り戻し、彼もまた、慌ててその場から走り去って行った。