コンプレックス
と言ってもまだ地元近くに住んでいるから完全な親離れではないけれど、僕にとってもお母さんにとっても、少し離れてみるのは大切なことだろう。
関君も賛成してくれた。マザコンの男は嫌われる。
何の前触れもなく玄関のドアが開き、薄い段ボールの箱を持った関君が部屋に入ってきた。
関君が来るのはいつも急だから今更驚かないけれど、何か荷物があるのは珍しい。
段ボールの中身はカセットコンロだった。
「今日寒いから鍋にしよう、お前野菜買って来いよ」
「それどうしたの」
「ドンキで買った。これ超安いんだぜ」
少し得意げな関君を傍目に冷蔵庫を確認すると、中には人参とシイタケぐらいしかなかった。
追い出されるように僕は買い出しに行かされて、スーパーで鍋の具とお酒を買った。僕はあまりお酒を飲まないから家にないのだ。
帰りの道すがら鍋をどこに仕舞ったか考えて、結局思い出せなかった。
土鍋を前に使ったのはいつだったろうか、一人で使うにはあの鍋は些か大きい。
エコバックの中で野菜がわさわさ擦れている。吐く息が白く濁った。
「ただいま」
「道具出してるから、早く準備しろよ」
僕がもたもたマフラーを解くのを見て、関君が顔をしかめる。
僕が仕舞い場所を思い出せなかった土鍋は、もうガスレンジに据えられていた。
大きく切った白菜がくたって、根菜や鶏肉に火が通ったのを確認し、僕は鍋を慎重にテーブルのカセットコンロへと移動させた。
「火、点けるね」
関君の視線がテレビなのを盗み見て、僕はコンロのつまみを捻る。
青い炎が一瞬溢れ、調節すればすぐ小さくなった。
僕には関君の前で何気なく火を扱うことが、まだできない。
何も言わないけれど関君はきっとそのことに気が付いている。だから彼はまだ炎が怖いんじゃないだろうかと、僕は思ってしまう。
心に沁みついた恐怖や劣等感は簡単には拭えない。
「もう煮えてるから」
「ああ」
それからしばらくは黙々と食べて、僕たちは特に会話もなくバラエティー番組を垂れ流しにした。
寒い日に温かいものを食べるのはとても正しい。
お腹がポカポカすると安心する。
僕は隙を見て関君のビールを舐めたりした。
ホップの苦みが舌に痺れる。
ぬるいビールはやっぱりおいしく思えないけれど、関君の缶をこっそり握るのが楽しかった。
「仕事は大変?」
「まあ楽じゃねぇけど、稼がなきゃ死ぬしな。お前大学は」
「……変わんない、よ」
大学生活は覚悟したほど、キツくなかった。決して甘くはないけれど。
僕は受験に失敗していた。
第一志望の学校に偏差値では僅かに手が届いていたけれど、大学受験に必要なのは学力だけではない。当時の先生の言葉を借りると、仲間が必要不可欠なのだ。
励ましあい、同じ目標に向かう友達。僕に友達はいなかった。
高校のレベルから見て落ちこぼれの僕には劣等感が付き纏い、日常の時々に苦しくて。お前はできるだけ勉強しろと言ってくれた関君にも申し訳なかった。
進学した僕に対して、関君は小さな食品工場で働き始めた。なんだかんだ言って関君は今地道に働き、コツコツと貯金をしている。
弁当屋の為の資金なのだと、何も言われないけれど僕はわかっている。
関君がやりたいことの為に前を見ているのが、とても嬉しい。僕は上手くいくことを願う。
「みんなで飲みたいよな」
不意に関君が切り出した。
「小学校ん時のメンバーでさ、あの頃はほんと馬鹿だったな」
「でも楽しかったね」
「そーだな」
関君がちょっと微笑んで、ビールの缶を指先で弾いた。アルミが軽い音を立てる。
「俺達、少しは成長してるよな」
「うん。みんな変ってるのかな」
変わっているだろう。失くしたものも、拾ったものもたくさんある。
それでも、会えばきっと懐かしい。
味噌工場の冒険は怖かったし、未だに関君の心に爪痕を残すけれど、あの日帰り道、僕はとても幸福でみんなもそれぞれ特別だっただろう。
僕は今でもあの夜空を思い出せる。関君の手の温かさも、全部。
出来るなら過去を消したい、特別な頃に戻りたい。
でもそれは出来ないから、僕らは苦しい中に特別な記憶をそっと思い起こして、世界の中を彷徨うしかないんだろう。
「みんな元気だといいね」
言ってから再びビールをかすめ取ると、今度は関君に頭を叩かれた。
鍋を片付けたらベランダで星を見よう。外は寒いけれど空気が澄んで、いつもより星が多いはずだ。
もし流れ星を見つけたら、僕は一生懸命、お祈りをする。世界の為にではなく、たった一人、関君の為だけに。