ひととせ
ひととせ
「あ、雪」
ダイニングの椅子の上で体育座りをしていると、窓の外を白い影が通り過ぎた。それからひとつふたつ、舞い落ちるそれはバルコニーの手すりに触れては溶けるだけの綿雪で、積もる見込みは薄そうだったけど、久しぶりに見るそれにすっかり意識を奪われる。後ろからちょっと呆れたような苦笑が聞こえた。
「帝人くん、ご飯できたよ。雪とご飯、どっちがいいの」
反射的に振り返ると、臨也さんがパスタの皿を両手で器用に抱えてそれをテーブルに並べるところだった。ニンニクの効いたトマトソースの香りが食欲をそそる。
「どっち?」
「ご飯」
「よろしい」
湯気を立てるパスタと窓の外を交互に指さして、からかうように笑う。答えなんて最初からわかってるんだろう。僕の口から望む言葉が告げられると、満足げにフォークを渡してくれた。
臨也さんとお付き合いを初めて一年。最初は良く僕が担当していた料理も、今ではすっかり臨也さんがするようになった。もともと器用な人なので、興味を持てば覚えは早いんだろう。「帝人くんが食べてるときの顔が面白くて」とか失礼なことを言ってたけど、その顔がなんだか嬉しそうだったので許したのを覚えている。
そうだ、あの日もこんな風に雪が降ってた。
「…一年、ですね」
フォークを皿の上でくるくる回してひとすくい。カットされたトマトごと口に含みながらぽつりと呟くと、遅れて向かいの席についた臨也さんがちょっとだけ考える素振りを見せてから、「付き合い始めてから?」と問い返した。
「意外だ、覚えてたんですか?」
「覚えてないよ。俺がそんなマメな男に見える?」
「見えません、けど、昔の臨也さんだったらそういうのいちいち覚えてことあるごとに持ち出してたんだろうなあって思って」
「…帝人くんの中の俺ってけっこうひどかったんだね…」
はあ、と傷ついたようにわざとらしい溜息を吐きながら、フォークをぐるぐる回して拗ねている。食べ物で遊ぶのやめてください、と無感情に告げると、もう立ち直ったのか臨也さんは楽しそうに笑った。
「一年、ね。ガーリックの効いた料理も一緒に食べれるようになってまるで夫婦ってところ?」
「女の子じゃあるまいし…付き合い始めた当初だってそんなの気にしたことないですよ」
「じゃあ来年は焼肉にでも行こうか」
そうですね、と何気なく答えてふと、もう一度窓の外を見た。さっきちらついた雪はもう止んでいた。どうしてかわからないけれど、それが無性に寂しくて。
簡単に来年の今日の話をする。僕もそれに相槌を打つ。来年も同じ二人でいようってお互いに思ってることは幸せなんだろう。たぶん付き合い始めるまでがめまぐるしい日々の連続で、こういう穏やかな日常にまだ慣れないのかもしれない。
「臨也さんにとって、一年って長いですか?」
彼の持つ非日常は、僕の中で大半が日常に溶けた。慣れてしまっただけなのか、彼自身が変わったのか、もしくはその両方なのか。それでも臨也さんが僕と付き合い始めたことで失った彼らしさもあるはずで。僕も彼も周りに影響を与え過ぎた。お互いが望んでも、これが良い結果なのかどうかは、今もわからないままだ。ふたりだけが幸せでいいのかすらも。
「帝人くんはたまに意地悪なこと訊くね」
空になった皿にフォークを置いて肩をすくめる。困ったような、でもちょっと嬉しそうな顔。こういう表情、昔はあまりしなかったな。僕は臨也さんのこういう顔、結構好きだけど、こうして変わっていく彼を彼らしくないと思う人も少なからずいるんだろう。彼を厄介だという人がいる一方で、信者になるような子たちだっていた。彼の変化が僕のせいだとして、僕は責任を取れるのかな。
「意地悪…ですか?」
「意地悪っていうよりずるい…のかな。俺の答えを予想してる一方で違うものを望んでもいる。君と一緒にいて変わっていく俺の傍にいても、以前の俺のほうが俺らしいって言うんだろ?要するに、帝人くんにとって一年は長い」
「だって…長かったですよ…いろいろ、あったし…」
出会いなんかなんの変哲もなかった。それからの遭遇は最悪だった。友達を傷つけられ、自分を傷つけられ、それでも彼という人から離れられない。好きだという感情はたぶん紙一重で、よく考えればそういう彼だから好きになったんじゃないかと思いもした。でもこうして一緒にいて、臨也さんの意外と普通っぽい一面を目の当たりにしても、居心地の良さを感じてる。嵐のように激しかったのに、そのひとつひとつが濃く鮮明で、脳裏に焼き付いている日々。つらいことも嬉しいことも引っ括めて、僕はこの人を好きになってしまったんだ、多分。
「俺はね、君と付き合い始めるまでは一年は長かった。でも付き合い始めてから今日までの一年は、あっという間だ。さっき帝人くんに言われなきゃ気づかなかったくらい」
「臨也さ…」
「俺が変わったことを危惧してるならちょっと自意識過剰じゃない?俺は自分が変わったとは思ってない。変わったとすれば、君を好きになったってことだよ」
さいごのパスタを飲み込んだ瞬間、意味を理解して顔が熱くなった。してやったりといった顔で臨也さんが笑う。
「間違いなく本心だけど、君の望む答えになったかな?」
それすら僕の好きな笑い方で、それが無性に悔しかった。