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宿屋にて

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 ナイジェルは独り酒を煽っていた。上等な葡萄酒さえ、喉を焼くただの液体だった。
 あまり酒に強くない彼は、必要以上の酒を摂取しない。
しかし、ナイジェルとて人間だ。時には溺れるほど酔いつぶれたい時も有る。
「………」
 小さいが繊細な細工の成された杯を木目の粗いテーブルに叩き付け、すっかり店仕舞いに取り掛かる薄暗い店内を、ナイジェルは隻眼で見渡した。
 馴染みの宿だが、ナイジェルを取り巻く人々はとうにベッドの中だ。
 それが今の空しさの原因であるが、それを認めたくなくて杯を乱暴に煽った。
 救われようとも思わない。救ってくれるものも居ない。ナイジェルは今、独りだった。
 だから、背後から近づいてくるおどけた足取りも迷惑でしかない。
 無邪気に心に踏み込もうとする男の気配はすぐにわかる。見えなくともにやけた面をしているだろう。
「なんだ、酒を煽りたいなら俺を誘ってくれればいくらでも付き合ってやるんだぞ。…おい、ナイジェル?」
「結構だ。俺はひとりで飲みたい」
「連れない事を言うな。お前が寂しそうにしているというのに、俺が放っておけると思うのか?」
 杯の水面を見下ろす瞳が揺れる。それを見て、キットは眉を吊り上げた。
「覇気が無い。お前らしくないな」
「だったら近寄るな。……――何度も言わせるな、俺はひとりになりたいんだ」
 沈み込んだ黒髪がだるそうに左右に揺れた。
「俺がこんな絶好の機会を逃すとでも思われたらかなわないな」
「痴れ者め」
「俺にとっては賛美の言葉だ」
 キットは長身を屈め、ナイジェルの元に膝を折った。
 やはり彼の瞳は曇っている。部屋の薄暗さだけが原因ではないだろう。
「なんの真似だ?」
「なんだと思う?」
 キットは甘い声で囁きながら、冷えてしまった船乗りの手を引き寄せた。
 咄嗟に振り払えなかったのは、きっと酔っている所為だとナイジェルは鈍った自分の動きに舌打ちしながら指を強張らせる。
「離せ」
「今夜は殴らないのか?」
「面倒なだけだ」
「それは好都合」
「離れろ。俺にはお前のような趣味は無い」
 ナイジェルの指は、顔に似合わずしっかりと船乗りの手をしている。筋張った間接を優しく撫でながら、キットは低く笑った。
「ジェフリーに、カイトに…彼らを俺と同じ目で見るお前が何を言う」
「……ッ!」
 痛い場所を突かれ、ナイジェルは乱暴に椅子から立ち上がった。
「お前と一緒にするな!…ッ…」
 不意に襲ってくる眩暈が、相当の量酒を飲んだと自覚の無かったナイジェルを苦しめた。
 怒りのあまり、急に立ち上がったのも悪かった。
 よろめいたナイジェルを、一回り長身のキットは軽々とはいかないもののしっかりその両手に抱き締めた。
「っと、無理はしないでくれよ。顔に傷でもついたら俺は酒を一生呪い続ける事になるだろう」
「………離せ」
「断るよ」
 腕を突っぱねようとしても、見かけ以上に逞しい腕は許そうとはしない。
 もっともっと深く抱き締めていき、恍惚と声を漏らす。
 腕の中の体は発達した男のもののはずが、どこか頼りない。
 強く香る酒に誘われて、唇を奪おうとしたキットは、情けない声を上げる事となった。
「っぐ」
「……離せ。俺は今お前の軽口に付き合う余裕は無い」
 腹部にめり込んだ拳にあやうく抱き締めた体を離しそうになったが、キットは執念で縋りついた。
「…痛いな。さすがに、お前の拳は効く」
「懲りない奴だ」
「そうでなければ生きてはいまい。俺の長所さ」
 痛みを耐えながらも甘い顔で笑う姿に、ナイジェルは怒る気が失せて肩を揺らして小さく笑った。
 笑うと何故涙腺まで痛むのだろう。光を失ったはずの右目までじくじくと痛み始める。
「……」
「お前を支える腕はいつだってここに有る」
「必要無い」
 緩んだ抱擁を押し返し、ナイジェルは多少ふら付きながらも自分の両足で立った。
「必要ないんだ」
 ナイジェルは繰り返した。
 その姿を見つめるキットの眼差しが、歪められるのにも気付かずに。
「ナイジェル」
「……なんだ、」
「そんな顔をして、素直に俺を誘うなら欲しいと一言言えば済むだろう?」
 すぐさま表情をすり替えたキットはいつもの調子でおどけて見せた。
 それがナイジェルの心の傷を僅かながらも癒したと、本人は気付けない。だが、キットは満足した。
 変わらない強い眼差し。揺らがず、天に届く鋭い山のようなプライド。どれもがキットが欲しいと思える、ナイジェルに属するものだった。
 心が傷つき、弱くなったナイジェルも魅力的では有るが、やはり冷たい刃のような彼が一番だ。
「酔っているのはお前だ」
「もっと酔わせてくれるのかい?」
「馬鹿め」
 目を伏せ、噛むような笑みに、キットは更に機嫌を良くした。
「酒を奢ろう。今日は共に酔おうじゃないか。久々の再会だ。すぐまた海に旅立ってしまう愛しいお前を少しでも多く俺の元に閉じ込めておきたい」
 ナイジェルは、キットの親切に甘えそうになる弱い自分を叱咤しながら拒めないと気付いた。
 そんな動揺、微塵も感じさせないようにいつも通りの声でナイジェルは奥で片付けを終えようとしている宿の女将に呼びかけた。
「一番上等なワインを貰おう。支払いはマーロウ殿が受け持ってくれるそうだ」
 背後でキットが肩を竦めたが、ナイジェルは構わずに笑う。
「そりゃありがたいね。だけどこっちはもう店じまいだよ。飲むなら部屋に上がってくんな」
 忙しなく食堂の片付けに精を出す女将の通る声に、キットも笑った。
「これは俺にとってチャンスだろうか」
「俺に触れたら命は無いと思え」
「だとすると、俺はさきほど既に一つ目の命を失った事になるな。もう恐いものはないだろう」
「クロスでも叩き込んでやろうか、悪魔め」
 言い置いて、ナイジェルは階段を上り始めた。
 慌ててキットは追おうとしたが、女将に酒の用意が出来たと声を掛けられタイミングを逃す。
「お前の部屋に行っても良いのかい?ナイジェル」
 返事は無かった。しかし、暗闇に静かに息衝く瞳の色が階段上に見て取れて、その眼差しの意図する事がキットの言葉を肯定していた。
 すぐ背を向けられてしまったが、キットは笑みを含んだ。
 そして、口付けを二階の想い人の部屋へと投げた。
 今は都合の良い男であっても構わないと、虎視眈々とナイジェルを狙いながら。
作品名:宿屋にて 作家名:七月かなめ