卑怯な唇
それがチームの内の一選手であった時はまだ良かった。だが今はそうではない。チームを率いる監督であり、チームの顔であるのだ。その男が、周りに理解されないままでは不味いだろう。
「おい、ゴトー」
「…うん?」
机の上に書類を広げたまま云々唸っている後藤は、突然かけられた声に振り向いた。振り向いたその顔が、酷くやつれている様に見える。
「お前、何て顔してんだよ」
「…いや、ちょっと仕事に疲れて」
尋ねられた言葉に返したそれは、嘘ではない。だがもっと正確に表現するなら、『お前の事を考えていたんだ』と言うべきだが、後藤にはそれを言う事が出来ない。言ったところで素行を改めてくれるとは思えないし、ケンカの種になるだけだ。適当な言葉を理由にして、後藤は元気のない笑みを浮かべた。それを前に、今度は達海が溜息を吐いた。
「ちょっと飲み行かねえ?」
「……え?」
達海をイングランドから引っ張ってきたのは、敗戦続きのETUにどん底から這い上がってもらう為だ。昔は、それこそ達海がまだETUに居る頃はそれなりに強豪チームであったのに、今や残留争いには必ずといって良い程にETUの名前が挙がっている。そんなチームからサポーター達が離れていくのは仕方が無い事だ。
チームの人気は選手だけのそれだけではない。チームの顔となるのは監督であって、監督もサポーター達に支持されなければどうしようもない。だがこの男はそこまで考えているのか、さっぱり分からない。
「何だよ、ゴトー。酒、進まねえなあ」
達海に誘われてやってきた、クラブハウスから割と近くの大衆居酒屋。選手時代にも何度か寄っていたのだが、あの頃はアスリートである為に、酒を飲むのにも気を使っていた。今は共に前線から退いた身であるので、そこまで気にする事も無い。そうであるのだが、後藤の持ったコップからは、達海によって注がれたビールが中々減らないのだ。
「お前が飲み過ぎなんだろ。俺は元々そんなに強い方じゃないから、別に良いんだ」
だが後藤とは逆に、達海の横には既に空になったビール瓶が二、三本転がっている。この短時間でハイペース過ぎやしないかと、後藤が眉を歪める。
「飲み過ぎ?こんなもんじゃ、まだ全然足りねーよ」
後藤の心配も他所に、へらへらと笑ったまま、達海は自分のコップにビールを注ぎ続ける。
「悪ぃな、ゴトー」
「……は?」
依然、酒を己のコップに注ぎ続ける達海から急に聞こえてきた言葉に、後藤は顔を上げる。目をぱちくりさせるそれが、いまいち相手の言葉の意味が分からないと語っている。
「最近、負けてばっかで悪ィな、って言ってんの」
きょとんとしていた後藤だが、その達海の言葉にはっとする。
最近のETUは負け続きでいる。監督が変わった事で各所から期待をかけられていたのに、このままで居ると、負け続きのあの頃から一体何が変わったのかと、失望されてされてしまうだろう。後藤が机の上で云々唸っていたのは、まさにそれの所為だ。
ETUは勝たなければならない。勝たなければ人気も得られない。人気が得られなければ、クラブハウスの存続事態が危ういのだ。
「まあでも、この後、頑張るからよー」
「…何か手でもあるのか?」
「…まあ、ね」
流石に飲み過ぎたのか、そこでへらりと笑った達海の顔が、酷く赤かった。だがそれは、本当は酔いのそれだけでは無かったのだ。
(お前って、本当に分かり難い奴だな)
いつも彼が本心を出さないのは、感情を表に出すのが下手だからだ。出さないと言うより、出せないと言った方が正しいかも知れない。試合に勝った時など、嬉し過ぎて感情が高ぶった時くらいは表に出すが、それだけだ。それだけだからこそ、彼は他の誰にも理解され難い。
(他の誰が信じなくても、俺だけはお前を理解出来るように頑張るからさ)
ぐしゃりと、目の前の達海の頭を撫でれば、何だよと達海にその腕を振り払われる。それに後藤が笑った。
「何、お前の事を可愛い奴だと、そう思っただけだ」
「…はあ?」
余り表に感情を出さない。思ってる事を人には悟らせようとはしない。だから人は彼を中々理解出来ないのだ。本人がそうしようと思ってやっているのかは分からない。だがそれでも、自分は彼と共にありたいと願っている。
あの時少しばかり赤かったのも、中々人に本心を言う事が無いから、妙に恥ずかしくなって照れたのだ。それを後藤は悟ったから、彼に『可愛い』などと言って笑った。冗談交じりに告げはしたが、それは後藤の本心だった。
「お前、今日はうちで良いのか?」
居酒屋からはクラブハウスの方が近い。それなのに達海が後藤の家に来ても良かったのだろうか。明日の仕事は大丈夫なのかと尋ねれば、『明日はオフだ』という言葉が返ってきた。
「だから今日は、俺の相手してくれんだろ?」
酒の所為で赤く染まった頬、とろんと落ちた目に、それがどれだけ後藤の理性を打ち崩すのか、この男は分かっているのだろうか。いや、分かっているからこんな事をしているのだろう。
「お前、最初からこれを狙ってたな?」
「ごめーいとー」
けらけらと笑っては、達海が後藤のベッドの上に崩れた。そして彼は、ひらひらと後藤に向かって手を振る。
「俺のこと、分かってんじゃん」
「…さぁ、どうだかな」
へらへらと笑う達海の顔に、今度は後藤が笑った。そして首に巻いているネクタイを取ると、上着を脱いで、ベッドへと向かった。
「全く、酷い奴だよ。…お前は」