後藤の見合い
世良はベンチに座りながら、暇そうに首を回しながらそう言った。
練習終りのETUのロッカールームで、椿はジャージを脱ぎながら、目を丸くする。
「ま、マジすか?」
「あ、それ俺も聞きました」
赤崎が横から顔を出した。赤崎はもう着替え終わり、鞄を担ぎなおして言った。
「だよなー、もうGMも40だもんなー」
「39っすよ」
「うるさいなー赤崎は……」
「み、見合いって誰とっスか?」
「俺が知るかよ」
「あ、子持ちらしいぜ」
「いきなり子持ちですか……」
「しかもナースらしい!ナース!いいよなー!」
「世良さん何考えてんすか、鼻の下伸びてますよ」
「の、伸びてねーよ!」
「ナース……」
椿が複雑そうな表情をする横で、世良は何か幸せそうに、足をバタつかせる。
「けっこんかーけっこんけっこん……いいなー俺も結婚してーなー!スポーツ選手っぽく女子アナとかと!」
「無理じゃないっスか、世良さん、背が足りねーよ」
「赤崎!お前なァァァ!!」
わぁわぁと言い合う二人を余所に、椿は一人、不安げな表情で呟く。
「ザキさん……どうしよう……俺、結婚できますかね……」
素っ頓狂な問いに、赤崎は怪訝な顔をした。
「はァ?できるんじゃねーの、普通にお前なら……世良さんは無理だけど」
「赤崎ィィィ表出ろォォォ!!」
「俺……女の人と付き合ったこと無いっす……」
『……え?マジで?』
まさかの台詞に二人が声を揃えて見合うが、椿は意にも介さず頬を染めて言った。
「もしだめだったらもらってくれますか……ザキさん……」
「エッ………………エッ?」
そんな若手のやり取りから何時間か後。夜になり、人気の無くなったクラブハウス前にタクシーが一台止まった。後藤は足早にクラブハウスに入ると、ある部屋に真っ先に向かった。扉の横に、汚い文字の貼り紙がしてある。「タツミ」
後藤は声をかけ、ノックをしたが部屋から返事は無かった。しかし部屋から明かりは漏れている。後藤は「入るぞ」と断ってから、ノブを回した。
「ただいま……達海、寝てんのか?」
相変わらず紙やらDVDやらが散乱したその部屋の、半分を占領するベッドの上に丸くなった人影がいる。疑うまでもなく、達海だった。
「達海……」「……起きてる、おかえり」
気だるげに起き上った達海はいつものジャージ姿だった。焦点が定まっていないような視線で、後藤の姿を見とめて、薄く笑った。
「良いスーツ着ちゃってー」
「……くたびれたスーツ着て行けないだろ、紹介してくれた会長の立場もあるし」
後藤はばつが悪そうに上着を脱いだ。達海の言う通り今日のスーツはいつも着ているスーツとは別の、上等のものだった。
達海はそんな後藤の言葉に興味無さげにふぅん、と答えると、ベッドの枕に頭を預けた。顔には、例の意地の悪い笑顔が張り付いたままだ。
「うまくいったの?可愛かった?子供」
「……達海」
遮るような後藤の言葉も気にならないように、達海は早口でまくしたてた。
「よかったなー後藤、もうすぐ四十なのに嫁さんナシじゃアレだもんな」「達海」「祝儀弾んでやるよ、今まで世話になったし」
「達海!」
後藤が一際大きな声で名前を呼ぶと、達海はフゥっと無表情になって言った。
「何だよ……怒ってんの……?」
「怒ってるのはお前だろ……」
後藤は溜息をつくと、達海の横に腰かけた。安物のベッドが二人分の重さに軋む。達海はゆっくりと体を起して後藤に向き直った。
達海は無表情だった、だったが、後藤は微妙な感情のにおいを感じ取る。達海の頭を左手で抱きよせて自分の胸に預けた。
「見合い、断ったよ」
後藤が囁くようにそう言うと、達海が腕の中で小さく震えるのがわかった。
「……何で?」
「チームがやっと軌道に乗って来た時なのに、私的なことに煩っていられないだろ」
「それだけ?」
「それだけだよ」
それから達海は黙った。後藤の腕の中にある表情は後藤からは見えなかった。ただ、赤茶けた髪の毛を、軽く撫でると、達海が腕を後藤の背中に回した。それから力を込めた。
「後藤」
達海が小さい声で呼んで顔を上げた。そのまま後藤のネクタイに手を伸ばす。後藤はしたいようにさせてやった。シュルシュルと、ネクタイはほどかれる。
拗ねたような声音で、達海は言った。
「結婚しなくていいの」
「何で」
「お前子供好きじゃん」
「お前だってそうだろ」
「俺?俺は子供なんか嫌いだね」
「嘘つけよ」
後藤はそう言うが、達海にとっては嘘じゃなかった。だって、俺では子供は産んでやれないから、とは言えなかった。今更だ、今更のこと。
後藤は「お前のために見合いをやめた」とは言わない。 多分一生言わない。それを重荷だと思わせるのが嫌なのか、本当にチームのためなのかわからないけど。俺達の関係はそんなものだ。この年になったら否応なしに考えさせられる、将来、将来、将来に、真面目に向き合ったら傷つけ合うだけだと知っている。少なくとも俺は。
後藤がもうすぐ四十になることも、俺が子供を産めないことも、後藤が子供を好きなことも、俺も本当は子供が好きなことも。
みんなみんなわかっていて、俺達は十年以上も前からこうしている。みんなみんなわかっていて、俺は、こいつを手放してやれない。
手放せない。
ネクタイを抜き去ると、達海はシャツのボタンに手をかけた。俯きがちに問いかける。
「見合い終わったらすぐにホテルにでも行くのかと思ってた」
「アホか!そんなわけないだろ!」
「できないように噛み跡残しといたのに」
達海がわざと犬歯を出して笑うと、「後藤はやっぱりわざとだったか……」と呟いて右肩の付け根をさすった。丁度、シャツで見えないあたり。そこに赤々とした噛み跡があった。
「シュラバになればいいのにって思ったのになー残念だったなー」
「お前なー、痛かったんだからな……」
後藤が半眼で睨むが、達海は無視して後藤の唇に舌を割り入れた。後藤は目を細めて達海の舌を絡めとる。達海の口の中は熱くて、後藤はなんとはなしに達海の真っ赤な舌を想像した。その真っ赤な舌が自分のものかこいつのものかわからなくなればいいのに、なんてことを考えながら、後藤は何度もキスをした。
そのまま後藤がベッドに押し倒すと、達海は後藤の耳元でそっと囁いた。
「なァ、もっかい噛んでもいい?」
その言葉に、後藤は一瞬眉をひそめたが、負けたように嘆息すると、「……好きにしろよ」と零した。
何年経ってもきっと奴の首筋には赤い跡がある。