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夜色

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それはそれは月が綺麗な夜だった。
 空気が冷たくて、肺から皮膚から凍っていった。指先なんてとっくに感覚を失っていた。
 深々と、寒さが体に染みていく。汗が冷えていく。体が冷えていく。自分が生き物であることを忘れていく。
 反面、感覚が研ぎ澄まされていく。
 生きている。
 投げ出された手足も、脱げた頭巾から散らばった髪も、ゆっくりと鼓動を刻む心臓も。誰の物でもない、自分の物だ。

「あんなに綺麗な蛸壷、見たことないなぁ……」

 しこたま仕掛けた蛸壷に、明日は誰がはまってくれるだろうか。
 願わくは、あの空にある蛸壷のように綺麗にすとんと落ちてしまえば良い。深い深い穴から、切り取られた空を見上げて、ああ、やられたと悔しがればいい。
 かと思えば、遠くでぎゃあと悲鳴が聞こえた。
 にやり、知らず口許が笑みを結ぶ。好奇心と悪戯心が騒ぎ出す。
 何が掛っただろうか。こんな夜更けに活動している下級生はまず、いない。なら、上級生、先生。いつも綺麗にはまってくれる小松田さん。曲者。
 ざわり、自分の中の獣が獲物を寄越せと欲張り、爪を磨ぎ、牙をむく。
 ああ、下級生だったらどうしよう。どうしてくれよう。この浅ましく貪欲な獣をどうなだめたらいい。
 なんて。いざ駆け付けてみたら年上の同級生がすっかり穴に落ちていた。なんとまあ。情けない。

「おやまぁ」
「綾部でしょ、掘ったの」

 深すぎ、なんて文句を言いながら情けない格好のままでいる。動く、とか。しないのだろうか。まさかこれしきで動けない怪我をしたとも思えない。

「一人で出れそうですかぁ?」
「こんな深いの、まだ登れないよぉ」

 彼はまだ弊も越えられないのだったっけ。訓練もまだ1年もしていないのだから、無理もないか。

「ねえタカ丸さん」

 狭い穴の中、漸く体勢をたて直した彼に問いかける。

「月は綺麗ですか?」
「月?」

 瞬きふたつに笑みひとつ。見上げた彼の上にひらりと飛び降りたら悲鳴が追加でひとつ。
 落下地点はちゃんと考えているから重くはないはずなんだけど。

「あ、あ、綾部!?」
「うん、やっぱり綺麗」

 蛸壷の中から見上げる月もまた一興。か。
 すっかり爪を丸くした獣を自覚しつつ、この情けなくも頼りない年上の同級生に擦り寄る。回した腕の中の体はまだ薄い。ぎゅうと力を込めたら苦しいよと苦笑する。頭を撫でる手は大きく、かさついていて。
 削がれてしまった狂気のかわりに、三十六度の熱に胸を焼かれた気がした。

作品名:夜色 作家名:吾雀