桜の雨、いつか
この湖畔は彼が好きだった場所だった。
ふと、口元に笑みが零れる。彼の好きな場所、好きな色、好きな食べ物、好きな天気、好きな花。
自分は、そんなものをみんな知っていたのに。
彼が好きな人のことは、最後まで分からなかったのだから、不思議だ。
もっと色々なことを話し合えると思っていた。
漠然と、最後にはいつか分かり合えるんじゃないかと思った。
記憶の最後には、白磁のように滑らかで綺麗なあなたの顔に、額の傷に、薄い閉じたままの唇に。
そっと。
幾つもの、涙混じりの口付けを落とした。
俺を生かすために、ずっと救急信号を送り続けていたのだと後から聞いた。最後には、νに乗り移って、自分の救命装置を俺にくれたのだ。
だから、俺は今ここでこうして、空を見上げている。
あなたの代わりに。
きらりと光る太陽が眩しい。人工の隔壁でも、太陽光は地球とそう変わらない。
さようならも言えなかった。
なにも、してあげられなかった。
あなたはいつも、何時だって俺のことを見ていてくれたのに。
勿論、返事はない。湖畔に植えさせた桜の木のひとつに、ゆったりともたれ掛かる。
頭上から舞い落ちる花びらを手の平で受ける。こんな風に、柔らかく受け止めてあげることが出来れば良かった。
散って行く花は、天から舞い降りて大地へと還ってゆくあなたのようだ。
あなたの夢は、かならず俺が叶えてあげるから。
口に出してしまうと、本当になってしまうから。
永遠にあなたを失ってしまうから。
俺はただ、黙って空を見上げ、あなたが落ちてこないかとそんなことを思いながら。
どこかでいつかは会えると、祈りのように呟きながら。
俺は、俺を待つ人たちの所に向かって歩き始めた。確かに、あなたの存在をどこかに感じながら。
たとえ、何も答えてくれなくても。
終。