ファースト・ステップ
出立は宵闇に紛れていた。
よいしょ、と荷物を担ぎ上げて、星矢は後ろを振り返った。そして、表情の読めない仮面の女性に向かってぺこりと頭を下げる。
「ありがとう、魔鈴さん。じゃあ、俺行くな」
「いや」
無愛想にも聞こえる声が実はそれだけでもないことを知っている少年は、にこりと笑って言葉を続けた。
「魔鈴さんってめちゃくちゃ厳しい師匠だったし、こんな事言うと甘ったれって折角のペガサスの聖衣取り上げられそうだけどさ」
言いながら、星矢はくりんと大きな瞳を回して戯けた表情になった。
「でも、聖衣獲得のお祝いってことで、一個だけお願いしてもいいかな?」
「なんだい、ぐずぐずせずにさっさと言いな、お前には時間がないんだ」
ぶっきらぼうに先を急かす師が星矢の言葉の内容は否定しなかったことに気付いて、少年は少し照れた笑いを浮かべて頷いた。
「俺さ、行方不明の姉さんがいるんだよ」
「知ってるよ」
「日本に帰ったら、まず姉さんを探そうと思ってる」
「耳にタコができた話だね。それで?」
いい加減話が回りくどいと怒られそうな気配に、慌てて少年は先の言葉を紡ぐ。
「うん、あのさ、魔鈴さん。今だけ、姉さんになってくれないか」
「……私が?」
「そう」
言うと、少年は師である女性に再び背を向けて、目を閉じた。この十年、少年はこの師を自分の姉でもあると思い込んで修行に撃ち込んできたのだ。単なる思いつきだけの言葉ではなかった。
「俺、魔鈴さんからの言葉、姉さんからの言葉だって思うから。一言で良いから、「頑張れ」って頼むよ。そうしたら、俺日本に帰っても、この先どんな大変でも、めちゃくちゃ頑張れると思うんだよな」
だから、と言葉を切って佇む星矢に、魔鈴は暫く押し黙ってから、腹の底からの声で怒鳴りつける。
「甘ったれんじゃないよ、星矢!」
そう言った後で、今度はうってかわって静かな口調で続けた。
「そのペガサスの聖衣はお前のゴールじゃない、スタートだ。お前は名前の通り天を自在に翔るペガサスの聖闘士になるんだ。こんな所で安心して立ち止まったら承知しないよ」
そして、最後に静かに締めくくる。
「そんな甘ったれた覚悟じゃ、自慢の弟と呼ぶには百年早いね」
「ああ、そうだな」
星矢は聖衣の入ったパンドラボックスを担ぎ直し、振り向かないまま片手を挙げる。
「じゃ、行ってくるよ、『姉さん』」
「ああ、行っておいで、星矢」
勢いよく駆け出しながら、やっぱりここだって俺の故郷だったんだと、滲みそうになる涙を擦りながら、少年は新しい世界に向かって勢いよく駆け出していった。
作品名:ファースト・ステップ 作家名:とりせ