恋人
「私はレイ博士に用があってここを訪れたのだ。先約だよ。諦めて帰りたまえ、お嬢さん」
「イヤよ」
同じく月光を弾く金髪の少女は、星のように煌めく青い瞳で半ば暗闇に溶け込む男を睨み付けた。
彼女の婚約者でもある医者のアムロ・レイの様子が最近おかしいと感じたので、急に彼女に会おうとしなくなった青年になんとか面会しようと夜中にアムロの家に押し掛けたのだが、玄関のドアを開けたところに立っていたこの男に一瞥されると、それだけで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまったのだ。
「あなたは一体誰なの? 突然現れて、アムロをどうするつもり?」
詰問調の言葉に、男は皮肉げに口唇を吊り上げる。薄いその口唇の端から微かに尖った犬歯が除き、ベルトーチカは思わず背筋を氷塊が滑り降りるのを感じた。
この男は、人ではない。
「アムロ・レイは知り過ぎた。……彼自身、我々と同じ闇の眷属の血に連なる存在であるのに」
「嘘よ! 何を言い出すの、突然現れて、そんな……!」
手燭の灯りだけに照らし出された室内で人外の存在と退治する不安を無理矢理に押し殺し、ベルトーチカが胸元のロザリオを握り締めながら男に向かって言い放つ。しかし、男はおかしそうにくくっと嗤っただけであった。
「嘘などついてどうする。ベルトーチカさん、レイ博士は最近、太陽を避けないか? 君を近くに寄せないのではないか?」
「な、なにを根拠に……!」
男の言葉に少なからぬ心当たりのあったベルトーチカは僅かに身構えたが、その前の一瞬の隙をついて、男がいつの間にか彼女のすぐ近くまで歩み寄って来ていた。
「簡単なことだ。彼もじきに私の眷属になろうとしているのだよ、……この浅ましき、他人の生命で命を繋ぐ闇の一族に」
息を飲んだまま瞬き一つできないベルトーチカの耳元で囁くと、男は彼女の真っ白な喉元を、長く伸びた赤い舌でねろりと動脈を確かめるように舐め上げる。
「本来ならば、君はアムロ・レイの花嫁になるべき最初の獲物だったのだろうな? こんな上物を我慢するなど、全く信じがたい腑抜けた男だ」
「……あ!」
ぎゅっとベルトーチカの白い手が、男の服を握り締めた。青い瞳を極限まで見開いた彼女の目には最初開いた扉の外の月光が移っていたが、やがてすぐにその焦点がぼやけ、何時しかうっとりとしたように仰のいて男に首筋を差し出すようになる。
やがて、口元から一筋つうと流れ落ちた紅い液体を拭った金髪の男が、酷く満足そうな吐息を漏らした。
「さて、アムロ・レイ。君が彼女を取り返すのが早いか、私が『花嫁』にしてしまうのが早いか……見物だな?」
抑えた声で嗤う男の声は月の光も届かない闇の中に消えていき、後にはただ、ぼんやりと人形のように佇む金髪の少女だけが残された。
その首筋には、見まごう事なき赤い噛み痕が、くっきりと残されていた。
***後日談
アムロは自分を攫いに来たという金髪の男と、今まさに拳銃を手に対峙していた。
「アムロ・レイ、もういい加減認めてはどうだね? 血が欲しいだろう、喉が渇くだろう?……我々の血を最も色濃く受け継ぐ男だというのに」
「誰が、貴様の思い通りになど。俺は人間だ、貴様みたいな化け物じゃない!」
「化け物さ。私でなくとも、他の血族がきっと君を見つけだす。そして日の下で暮らす君に嫉妬して眷属に引き戻そうとする。……諦めたまえ、もう人には戻れはしない」
「俺は人間の血なんて吸わない!」
殆ど悲鳴のような声で絶叫して、アムロは拳銃をかまえた。くつりと金髪の男が嗤う。
「いいだろう、撃ちたければ撃つがいい。私は信仰を持たない人間だ、十字架を溶かした弾丸など効かんぞ」
「うるさい、試してみなければ分からないだろう!」
言いながら、アムロは銃の撃鉄を起こした。
クワトロの心臓を撃ち抜くつもりで狙いを定めたアムロは、しかし次の瞬間驚愕の叫びをあげる。
「ベルトーチカ……!?」
長い金髪を宵の闇に翻しながら、アムロの恋人であったはずの少女は、アムロの拳銃とクワトロの間に飛び込んできて、手を広げた。
「ベルトーチカ、何のつもりだ!」
しかしながら、ベルトーチカの瞳はまるで硝子玉のように何も映さず、虚ろな表情でただ男達の間に立ちはだかる。
焦れたアムロが駆け寄るより先に、男が手を伸ばして少女を自分の方に引き寄せた。
「おや、君は随分と長いこと彼女を一人きりにしていただろう? 可哀想に、寂しい思いをした女が心変わりをするのは当然だと思わないかね」
「貴様、ベルトーチカに何をした!」
「何も?」
クワトロは不敵に嗤うと、少女の手を取って見せつけるように恭しく口付ける。
「君のような堅物とはもう付き合いきれないそうだ。……君が来てくれないなら仕方がない、彼女だけでも連れて行かせて貰うよ」
「待て、彼女は関係ないだろう! その手を離せ!」
拳銃を構えながら近付いてくるアムロの目が激情の為かどんどん妖しい人外の光を湛えるのを小気味よい気持ちで眺め、クワトロは青年を挑発するように少女の体を抱き寄せる。
「離さない。私は寂しい男だからね。追って来るのは君の勝手だ。ただ、私の花嫁は渡せないな」
「誰が貴様の花嫁だと、勝手な事を……!」
言いかけたアムロの目の前に、ざぁっと黄金の霧がかかった。思わず避けようと腕で顔を覆ったアムロは、次の瞬間にクワトロがベルトーチカごと消え失せているのを知る。
『分かるだろう? 私と同じ眷属の君ならば、私がどこに居ようとも』
最後に耳元に囁かれた言葉を反芻しながら、アムロはきつく両手の拳を握り締めていた。
うっすらと射し始めた朝日を厭わしく思う感情になど、まだ気付きたくなかったと思いながら。