恋人
「あなたは、誰?」
「通りすがりの忍びの者です、決して怪しいものではありませんので、どうか見なかったことに」
騒ぎ立てる獣たちを宥めながら発した誰何の声に返された人を食ったいらえに、冗談を、と少女が呆れた表情を浮かばせながら言った。
「深夜に淑女の寝室に潜む男が怪しくないだなんて、よくもぬけぬけと言えたものです」
青い髪の毛の少女の小生意気な口調に、黒尽くめの男がくつりと笑みを洩らす。
「流石はメダイユ公の姫君です。聡明でいらっしゃる」
「目的はなんですか? お父様を困らせるような真似ならば許しませんよ」
はっきりと返される言葉に、男が僅かに苦笑を漏らした。
「申し訳ないのですが、姫君をお連れしに参ったのですよ、私は」
そう告げると、男はほんの僅かだけ抵抗を想定して身構えた。しかし、案に相違してクッション一つ飛んでは来ず、更に少女の男への返答もあっさりしたものだった。
「そうですか、それでは参りましょう」
「はい?」
「参りましょう、と言ったのです。私を傷つける意図はないのでしょう? 人質は無事でいてこその人質ですもの」
言いながらベッドから飛び降りて支度を始める少女を男はやや呆れたような表情で見遣った。
「姫君? いいのですか、お父様を困らせることになるのでは?」
「ああ、そうですね。それでは私、お父様に手紙を書きますから、少し待っていてください」
「随分と度胸の据わった方だ。メダイユ公はあなたをこそ国の宝とするべきですな」
言うと、ライティングディスクの上で素早く羽根ペンを走らせていた少女が華やかな微笑みで笑う。
「だって、世界中でお父様を困らせていいのは娘である私、アナ・メダイユだけです。無論あなたになど許しません」
言って手紙を真っ白な封筒に入れて印章付きの封蝋で止めた後、少女は興味深げに男の浅黒い顔をしげしげと眺めた。
「あなたのお名前は?」
「ゲイン、ゲイン・ビジョウと申します、アナ姫様」
「それではゲイン、この哀れな人質を案内して下さいますか?」
言って一人前の淑女のような仕草で差し出された手を跪きながら取って恭しく手の甲に口付け、男はにやっと笑って顔を上げる。
「剛毅ですね、怖くはないのですか」
「あら」
アナは暫くゲインの顔を見上げ、瞬きをした後で頬に手を当てた。
「私、家庭教師のデュボフ先生がこっそり持っているもの以外、そういう本は読んだことがないのですけれど、もしかして本当は『夜這い』にいらしたのですか、ゲイン・ビジョウ?」
困りました、私、ベッドに倒れ込んだ後のことは知らないのですと真剣な表情で呟く少女に、ゲインは内心で特大の白旗を上げる羽目になった。
***後日談
アナ姫はかたりと生真面目に机を引いて座った。
「それではまず、「夜這い」という言葉の定義の講義からお願いします、ゲイン・ビジョウ」
「姫様、もしかして俺のことからかってます?」
「まぁ、何を仰います。私は今、新しい世界への好奇心で胸がはちきれそうなのです。さぁ、遠慮はいりません、ゲイン・ビジョウ」
「遠慮はいりませんったってね……」
果たしてどのタイミングで連れ去るか、未だ持って計りかねているゲインは、夜明けまでの刻限を思ってこっそりと溜息をもらした。