赤鼻のトナカイ
呼ばれて、跡部は渋々といった感じで顔を上げる。
「…なんだ」
「うわ、素っ気ないなぁ。ガラスのハートが傷つくやんか」
「あぁん?毛の生えた耐熱ガラスの心臓のことか?」
言うと、目の前に広がったノートにまた視線を落とす。相手にされなくて、忍足の尻からちょっと生えかけていたわんこの尻尾はへたりと垂れ下がってしまった。
「つれないなぁ」
跡部は一瞬だけ視線を上げたが、すぐに落とす。付き合いきれないと思っているようであった。忍足はめげずに食い下がる。
「関西では『イケズ』いうんやで、そういうの」
「いけてないのはお前の方だろ?」
カリカリとシャープペンシルが紙の上を走る音。後には、跡部の好む硬質な芯の描き出す薄い几帳面な文字が並ぶ。
跡部景吾は優等生である。———先生の言うことはきちんと聞くし、成績だって優秀だ。氷帝学園テニス部二百人を纏め上げた伝説の主将は伊達ではない。この夏以降惜しまれつつ引退したが、未だに望まれてはちょくちょく顔出ししている。
まぁしかし、高校受験など跡部にとっては児戯に等しいだろうが。
しかし、と忍足は思う。
跡部といい、青学の手塚といい、優等生というのは「全てが完璧」と同義語ではない。というか、卒のない数多の称号をこれだけ抱えて更に一癖も二癖もあるというのが既にとんでもない。
跡部はこう見えて生徒会の予算会議から多大な予算を分捕ってくる天才だが——実家が裕福だからといって、本人に金銭感覚が無いわけではない。むしろ、その辺りは誰よりしっかりしている。あの曲者顧問が頼りにするはずだ——青学のテニス部に至っては、部長と乾とかいう部員の二人組で得た部費を転がしてシサンウンヨウマネーロンダリングの果てに増やしているとかいう黒い噂まで存在する。
その噂を聞いたとき、そんな中学生がおるなんて東京はオソロシイ所や、と忍足は本気で思ったものだ。
は、ともかく。
忍足は視線の先の色素の薄い茶色味がかった柔らかそうな髪の毛をしみじみ眺める。
オソロシイ所やけど、こんな別嬪さんに会えたんやから、東京来て良かったよな、俺。
目元の泣き黒子なんか絶品だ。跡部に睨まれて怒鳴られたいだけに時たまミスをする部員だって居るくらいだ。———そんなことを思っていると、跡部はばさばさと教科書とノートを片付けて、席を立った。
「あれ、どこ行くのん?」
「部室。久しぶりに」
どうやら、邪な成分を含んだ視線に晒されるのが我慢ならなくなったらしい。賞賛の声はあんなに好きな癖に、勝手な奴ー、と思いながら忍足も向かいの席を立つ。
「俺も行っていい?」
「駄目だ」
「や、聞いてみただけ。どっちにしても行くやん、俺も」
今度こそ、呆れた顔で跡部は忍足の顔を眺めた。
「前から一度聞いてみたかったが、お前ってマゾか?」
「ちゃうちゃう。アトベの円舞曲やったら何発喰らってもええとは思っとるけど」
「破滅しやがれ」
「もう、しとる」
にっこりと微笑んで嬉しげに忠犬よろしく跡部の後を着いて歩き出すと、サドッ気のある王様に三つ目の角で巻かれてしまった。
「…跡部、俺は負けへんでー!」
王様の命令で忍足を抑えていた樺地に、慰めるように肩を叩かれながらも、不屈の闘志を燃やす忍足侑士であった。
***
引退してから久しぶりに覗く部活が終わった後———さすがにテニスをやっているときは忍足も跡部にちょっかいをかけたりしない。テニスだけは真剣にやっているし、跡部が浮ついた人間が嫌いなのは百も承知だからだ———部室のロッカールームで着替えて日誌を書き終えてからも、後片づけをする後輩達が全てを終えるまできちんと見届けてから帰るのが帝王・跡部だ。
そういうところは引退後も変わらない。顔を出した日は、必ず最後に部室を出る部員達と一緒に、帰る。
別に細かいチェックをしようとかいうのではなく、責任感からそうしているのは皆知っているので、誰も跡部がじっと部室でデータをパソコンに打ち込んだり本を読んだりしているのを邪魔に思ったりはしていない、筈だ。
逆に跡部以外の三年生が残るのは目障りでしかないのを知っている忍足は、掃除をする一年坊主を羨ましげに横目で見ながら先に部室を出る。
「跡部、お先」
「ん」
跡部はどこまでも素っ気ない。なんかなぁ、跡部追い掛けて一緒にハイスクールライフも!とか意気込んでるのに、ちっとも靡いてくれへんよなぁ、とちくちくする胸を押さえつつ、忍足は暗くなった校内を校門までのろのろ歩く。
もしも万一留学とかされてしまったら、この想いはどこに行くのだろう。
そんな風に考えていると、鼻先にちらりと白いものが落ちた。
「……雪?」
空を見上げると、少し早い雪雲が空を覆って、今まさに雪が降り始めたところだった。関西のぼたりと落ちてくるような牡丹雪とは違うさらりとした雪の質感に、雪まで素っ気ないんやね東京は、と溜息をつく。
マフラーを巻き直し、手袋を持っていないことに気付いて軽く舌打ちした。外気が冷えるに従って、晒された部分の皮膚がピリピリした痛みの感覚を伝えてくる。ただでさえ凍える心の傷心忍足に、この雪は効いた。
「そういや、もうじきクリスマスやんなぁ」
グレイな受験生の自分達には関係ないが。つんと冷気を吸い込んだ鼻の奥が痛くなる。きっと今、鼻の頭から赤くなっているに違いない。
思うと、子供の頃から聞き馴染んだ歌が頭を回った。
「真っ赤なお鼻の〜♪トナカイさんは〜♪いっつもみんなの〜♪笑いもの〜♪」
俺もきっとお笑いなんやろなぁ、回りからみたら。思った瞬間、背後からかけられた声に忍足は文字通り飛び上がった。
「なんだ、随分楽しそうじゃないか、あぁん?」
「あ、跡部!」
なんでここに、と言うより早く、跡部がぱちんと指を鳴らした。後に控えた樺地が、忍足に一組の手袋を差し出す。
「なに、これ」
「俺様の目の前でそんな風に惨めったらしく震えていやがるから、プレゼントだ」
思わず受け取った手袋は、サイズからして跡部自身のもののようだった。慌てて手を振る。
「ええって!跡部こそ手袋ないと寒いやんか!」
「予備は持ってる」
言いながら、跡部は手を翳して見せた。確かに、その手は高価そうな革製の手袋で覆われている。なので、忍足も遠慮はやめることにした。
「おおきに。明日返すわ」
「あぁん?他人が使ったものなんて俺様が使うか。それはお前にやる」
傲慢に言い放つと、跡部は泣き黒子で飾られた涼やかな目元をほんの僅か弛めて、ニヤリと微笑んだ。
「メリークリスマス」
囁くと、呆気に取られて呆然とする忍足にラケットを握る指は痛めるな、と言い置いて彼の王様は足早に通り過ぎて行ってしまった。校門を出て、黒塗りの迎えの車に乗り込む跡部に、慌てて礼を言う。
「ありがとう、———メリークリスマス!来年も再来年も、一緒にテニスしょうな!」
「———気が早い」
跡部は相変わらず約束も優しい言葉の一つも与えてはくれなかったが、やっぱり彼を諦めるのは出来そうもありません、と忍足は神様と多分サンタクロースにも固く誓ったのだった。