スプリングランナー
ぼくには年をとればとるほど数年前の自分がたいへん幸福であることに気づいてさみしくてどうしようもなる夜がある。多分あのころ、まだ18年しか生きていない自分が言うのものなんだけれど、あのころは全てがなんだかきらきらしていて、あんまり世界を疑うこともなかったように思える。いやでも中学生だったから、そんなでもなかったかなあ?思い出はすべてをきれいにするのでいけない。
そろそろ桜が咲き始めるころだ。ぼくは生まれてからずっとお世話になっている公園のブランコに座っておぼろ月(と、いうのだろうか)を煙草を吹かしながら、ぼけっと見上げていた。お世話になっているというのは、幼少期は南とよくかくれんぼをしたし、小学生になったらやっぱり南とここを基点にマフィアごっこをしたし、中学生になったら、南ではなくて、かわいいおんなのこと、よく滑り台の下に潜り込んだものだ。高校生になってから立ち寄ることは少なかったけど、やっぱり住み慣れた町の公園というのは落ち着くのでいい。あと3日もしたら、しばらくお別れになる。
「あんま堂々と煙草吸ってんじゃねぇよ」
艶っぽい声が聞こえてきたので月から視線をそちらにむけたら、声通り艶やかな跡部くんが呆れたようにたっていた。彼は今日も完ぺきにうつくしい。そのうつくしい一部である眉毛が眉間によっていて、それは夜にすごく似合っていた。
君こそこんな夜(といっても10時だけど)に制服でいるもんじゃあないよと思ったけれど、そこは言わないで笑っておいた。やあ、どうしたの。
「どうしたもこうしたも、なんだこのメールは、うっぜぇ」
跡部くんはブランコの前にある、ちいさな黄色の柵を人より長い足のおかげで難なくのりこえてぼくの眼前にきた。そうして携帯をぱこっとひろげる。そこには30分くらいまえにぼくが彼に送った文章がまるまるのっていた。<愛してたらいますぐ来て ハニーより>
「やだなー跡部くん、やっぱりぼくのこと愛してるんだねえ」
「寒いこというなっ」
「うん、いまぼくもぞわっとした」
けらけら笑っていたら、跡部くんはぼくのとなりのブランコに腰かける。とてもスタイルがいいひとというのは、こんな子供用の玩具にのっても絵になるのだなあと僕は思った。なんだかブランコが高級なものにみえてくるからすごい。18の男がブランコにのっている構図がどこぞの中世ヨーロッパの宗教絵のような美しさになるのはきっと跡部くんが跡部くんであるからだろう。なんか後光さえみえそうでこわい。ぼくは携帯灰皿に、煙草をすりつけて消す。このひとはあんまり煙草が好きじゃあないからだ。
僕らの間にあんまり会話はない。僕はしゃべることがすきだけど、彼はそうじゃないからだ。だけどぼくが喋れば呆れながらも彼は返事をしてくれる。ぽつりぽつり自分のことも喋ってくれる。彼に出会ってもう4年がたとうとしているけれど思えば随分まるくなったものだ。出会ったころは、ぼくが口をひらけばすごく嫌な顔をしていたくせに(後にきいたらそれはどう対応していいかわからなかったそうだ。なぜならぼくのことが好きだから)
「跡部くん」
「なんだよ」
「あとべくん」
今はもっと、なにか、言うべきことがあるはずなのにぼくはもう跡部くんの名前しか呼べなくなっていて困った。少し大人になった彼の目をみたら、ぼくの目の奥があつくなるもんだからびっくりする。なんでこんなにも。きっと情けない顔を、いまぼくはしているんだろう。
彼は一見冷たくみられるし、実際うわべの言動は冷たいんだけれど、ほんとうはとても優しいことをぼくは知っている。4年間のたまものである。それは彼がここにいてくれる事実と存在が物語っているだろう。そんなんだから、ぼくはもっとうぬぼれる。
「俺さぁ、あとべくん、すきだよ」
明日彼は海を越える。ぼくは3日後にこの町を旅立つ。お互いいままで経験したことのない距離におかれるのだけど、しかし大してとくべつな約束はしていない。住所も知らないし、つぎに会う日も決めていない。だけどぼくはそれでいいとおもう。どうであれ不思議とぼくたちの関係がほつれることはないとおもうのだ。もしいまここで跡部くんが、ああ俺も好きだと陳腐な台詞を言おうもんなら、ぼくは諦めの表情になるだろうけど、彼はなにも言わずにいてくれるので、良かったなあとおもう。言葉はときどきにして、大変に信用にならないからだ。
数年前の僕は大変に幸福だったけれど、現在のぼくもそう悪くないんじゃあないかなあとおもう。ちょっと不安になっただけ、ただそれだけ。ぼくたちは言葉もキスも交わさないまま春の夜の中にいた。この夜があればきっとどうにか、やっていけるさ。