泣いた雨
だるい体をうっとおしく思いながら寝返りを打つと、先ほどまで僕を喰っていた人が広い背中を晒している。そこには傷一つなく、その事実に僕はいちいち打ちのめされた。馬鹿みたいだ、池袋最強の喧嘩人形に、僕が傷をつけられるなんて、そんなことありえないのに。
「僕を、殺さないんですか」
白い煙がたゆたうのを見ながら、僕はその人に声をかけた。
彼――静雄さんは驚いた顔をしてこちらを振り向いた。「起きたのか」と優しい声を僕に落とし、大きな手のひらはそっと僕の髪を撫でる。
「静雄さん、僕を、殺さないんですか」
「…殺さねえよ」
「怒ってるんじゃ、ないんですか」
裏切った僕を、その目で確かに見たはずなのに。僕を連れ去ったのは他ならぬ静雄さんなのだから。
雨が未だ外でやかましく泣いている。その声がうるさくて、耳をふさぎたくなった。本当にろくなことがない。だから雨の日は嫌いなんだ。頭も痛いし、だるいし、濡れるし、いいことなんて一つもない。
「何で、はっきり、切り捨てないんですか、」
臨也さんに誘われるまま、一緒にホテルに入って、彼に抱かれた。
それは静雄さんへの裏切りだった。僕は無理矢理連れて行かれたわけではない。臨也さんの手を取ったのは、僕の意思だ。静雄さんを傷つけると知っていて、裏切りだと、知っていて。
だから、静雄さんは僕を責めるべきだった。何をしているんだと、僕を罵倒し、僕を傷つけるべきだ。なのにこの人は、変わらぬ手で僕に触れ、僕を抱く。
違う、僕は優しくされたいわけじゃない。
「お前って、時々すげえバカだよな」
タバコをもみ消し、静雄さんは少しだけ僕に近づいた。ベッドが軋むその音が、まるで僕の心臓の音のようで、無性に泣きたくなる。
「静雄さん、僕は言葉遊びがしたいわけじゃありません」
「俺だってしたくねえよ」
「なら、」
「俺だって怒ってないわけじゃねえ。考えてることだってたくさんある。でも、俺はそんなことしねえ」
頬を滑った彼の指は、まるで涙を拭うような仕草で。
温かな指だった。静雄さんの体温は、高い。外は大雨でとても寒いのに、彼の指だけはこんなにも、温かいのだ。
「俺がお前を責めるのはすげえ簡単なことだけど、その前に、俺以上にお前が自分のこと責めてっから、俺の出る幕なんてこれっぽっちもねえじゃねえか」
「だからって」
「全部を許してるわけじゃねえ。それは忘れんな。でもな、やっぱり――俺はどうしたって、どうしたって、お前が好きなんだよ」
確かめさせるように何度か呟かれた「好きなんだ」という言葉は、僕の中で反芻し、溶ける。溶けた途端に別なものに変わって、それが僕を飲み込もうとする。
この感情の名前を、僕は知っている。
「ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
自分勝手でごめんなさい。貴方のことを考えなくてごめんなさい。卑怯でごめんなさい。
怒らないのか、切り捨てないのか、そんなことを口走っておきながら、そうされるのが怖くて、怖くてたまらなくて、貴方の優しさに甘えてごめんなさい。
「僕も、好きです。静雄さんが、好きです。好きなんです。好き、で、……ごめんなさい、ごめんなさい、静雄さん、ごめんな、さ、」
「もういい」
キスはどうしたって甘いから、その分僕は塩辛い涙を流して相殺しようとする。
そんな子供みたいな行為も、静雄さんは拾い上げ、僕の名前を呼ぶ。帝人。下の名前は彼の想いが込められていて、零れる度に僕をベッドに沈めていく。
「お前が俺のことを好きでいてくれんなら、俺はお前を手放さねえし、離してなんかやらねえよ」
その時見せつけられた笑みを、僕は一生忘れないだろう。
今度こそ、彼の背に爪痕を刻むことができるかもしれない――懲りない僕は覆いかぶさってきた静雄さんに、ゆっくりを腕を回し、彼を小さな檻に閉じ込めた。