チルディッシュ
ある日曜日の話。
千歌音がいつものように姫子の住んでいるアパートに来ると、姫子はノートパソコンに向かいながらカタカタと必死に指を動かしていた。
なんでも、姫子が働いている出版社に提出する企画書の期限がもう近いらしい。いつもはこんなミスを犯したりはしないのだが、ここ最近は千歌音との再開に浮かれて企画書の事をすっかり忘れてしまっていたという。
全く、と千歌音は柔らかく微笑みながら息を漏らした。本当に、こういう所は変わっていない。
話せない事は少し寂しいけれど、千歌音は仕事をする姫子の姿が好きだった。
「千歌音ちゃん、ちょっとそこの棚にある広辞苑取ってくれる?」
しばらくすると姫子が千歌音の方に首を少しだけ回して、申し訳なさそうにお願いをした。
わかったわ、と返事をした千歌音が側にあった本棚を見上げ広辞苑を見つけるが、それが収納されているのは千歌音の身長より遥か上。どんなに手を伸ばしたって届く筈がない。
少しの間考え込み、千歌音は窓の側にある椅子をその本棚の所まで運びそれに乗っかった。
これで取れる、と千歌音が嬉しそうに広辞苑に手を伸ばした。
「―――あ、」
広辞苑が予想以上に重くて。
その重さにバランスを崩し、千歌音の体は仰け反りそのまま宙へと投げ出される。
「――ッ!」
「千歌音ちゃん!」
これはもう落ちるしかない、と覚悟を決め襲い来る痛みに耐えようと千歌音はぎゅっと目を瞑る。
けれどいつまでも痛みは来ない。不思議に思い恐る恐る目を開いてみると、そこには心配そうな顔をした姫子が居た。
「…千歌音ちゃん、大丈夫?」
ごめんね、ちょっと高かったね、と姫子は謝る。その言葉で、千歌音は漸く自分が姫子に横抱きされている事に気が付いた。
姫子が助けてくれたのだ。バランスを崩してそのまま床に叩き付けられる筈だった自分を、姫子が助けてくれたのだ。
そこまで考えて、千歌音は横抱きをされているという事実に顔を赤くした。
「あ、ありがとう、姫子。大丈夫よ」
「ほんとに?どこか捻ったりしてない?」
「えぇ。どこも痛くないわ」
ぐいぐいと姫子の肩を押して腕から逃れようとする千歌音を、姫子は渋々とその腕から解放した。
自分が姫子から離れた事によって姫子はしゅんとした表情を浮かべている。そんな所も姫子らしくて、変わってなくて。
―――だからこそ、悔しい。
前世は逆だったのに。自分が転びそうな姫子を助けて、抱き締めて。姫子は顔を赤くして、自分がそれに愛おしさを感じる筈なのに。
でも今の姫子は違う。
背も力も自分より強くて立派な社会人としてとても頼りがいがある。それなのに自分はあの頃のまま、何も変わらずただの無力な高校生。何も変わってない、変われていない。
そのせいか姫子は最近千歌音を妙に子供扱いする。外出するのに妙な心配をしたり、不意に微笑みながら抱き上げたり、千歌音が拗ねていると笑いながら頭を撫でたり。
…それがなんだか悔しくて。
けれどそれはただの意地なのだと気付いた千歌音はまた自分の未熟な部分に顔を赤くする。
そんな風に一人で悶々と考えていると、不意に姫子が千歌音の首に手を回しのし掛かる様に抱き付いてきた。
仕事は?と問うとどこか抜けた声でもう終わったよ、と返す姫子。
「はぁ…千歌音ちゃーん」
後ろからすりすりと頬を擦り付けてくる積極的な姫子に千歌音はなんだか恥ずかしくなってしまい、視線をあちらこちらへ泳がせている。
そして不意にこれも一種の子供扱いなのではと思ってしまい、姫子から逃げるようにその腕の中から離れた。
見ると、姫子は不満そうな視線を千歌音へ送っている。
「もう!どうしたの、千歌音ちゃんっ」
「…えっと……」
言ってしまっても良いのだろうか。うんざりされたりしないだろうか。
いや、実際はそんなの建て前に過ぎない。ここで今千歌音が渋っているのはそれが千歌音の意地でしかないということを、千歌音自身が自覚しているからだ。
それでも姫子は千歌音に向ける鋭い視線を緩めたりはしないから、仕方ないという風に千歌音は唇を開いた。
「子供扱い、しないで」
「え?」
案の定姫子はきょとんとした表情を浮かべる。次に首を傾げ、子供扱いしてるつもりはないんだけどな、と千歌音の目を見据えながら言う。
千歌音は少しだけ息を飲み、今まで先の行動含めて子供扱いされたと感じた行為と、それにより千歌音がどれだけ複雑に思ったかを姫子にぶつけた。
それを聞いた姫子はうぅんと小さく唸り考え込む。そして何か閃いたのか唐突に立ち上がった。
「うん、ごめんね千歌音ちゃん…気付いて上げられなくて」
「あ、や…そんな……きゃっ!?」
ひょい、と姫子は千歌音の体を抱き上げ、にっこりと眩いまでの笑みを浮かべた。…嫌な予感がする。
「千歌音ちゃん子供扱いされるのが嫌なんだよね?…じゃあ、あっちの部屋で大人なコト、しよっか」
「!!!」
その予感は見事的中した。千歌音が違うと首を振りながら姫子の肩を叩くも、姫子は笑いながら頬摺りするばかり。
そうして姫子に部屋へ連れ込まれ、扉を閉められた瞬間千歌音は悟った。
――もう、逃げられない。