不甲斐ない
今夜は嵐だと邸の下女が噂をしていたのを覚えている。その噂通り、空が薄紅色に染まる頃にはもう激しい雨と風が猛威を振るっていた。
幸い、そこまで巨大ではなかったらしく邸は対した被害を受けずにいたのだが、村の方はどうなのだろう。村の家屋は邸と違ってあまり頑丈には造られていない。風で飛ばされてなければいいのだが。
…本当は、村の被害だけを考えなければいけない。それなのに、頭の片隅にはどうしてもあの子の顔がちらついてしまう。
あの子は怯えてないだろうか、あの子は震えてないだろうか、あの子は寂しがっていないだろうか、あの子は、あの子は……。そんな不安にも似たものが胸で渦巻いている。
そんなものを抱きながら布団にくるまっていたけれど、とうとう我慢出来ずに、私はゆっくりと立ち上がった。
「千歌音?」
轟々と響く風の音をかき分けて、千歌音の部屋の襖をそっと引く。その隙間から声を掛けると、膨らんでいる布団が僅かに動いた。
中に入って襖を閉めると、布団の中から涙目になっている千歌音が顔を覗かせた。
「姫子…っ」
そんな千歌音の表情と声色を見て、やっぱりね、と私は笑うと千歌音は僅かに頬を膨らませる。でも、そんな表情も私が側に寄って頭を撫でてやると直ぐに安心したような表情に変わり、それが可愛らしくて、また私は口元を緩ませた。
けれど、それもすぐ暗い不安へと姿を変える。こんな幸せな時を過ごす度に脳裏にあの忌まわしい運命がちらつき、私を不安の渦へと引きずり込むのだ。
嵐なんて怖くはない。もっと言えば、物取りも、人殺しも、大津波やオロチだってこの子と一緒ならば怖くなどない。
只、神無月の巫女が背負わされる運命…この子との繋がりを断たれてしまう事だけが、どうしようもなく恐ろしい。いつかこうやって戯れる事も、愛を囁く事もできなくなるのだ。…永遠に。
それは死にも似た、それでいて死よりも残酷な運命。どうしたって逃れられない。
「え…っ、姫子?」
千歌音の少しだけ驚いたような声に、私はハッと意識を戻す。頬の上を何かが伝うような感触がして、もしやと思いそっとそこを撫でてみると案の定はらはらと涙が零れていた。
――なんてみっともない。
千歌音を守る立場の私が、絶対に涙を見せてはいけない立場の私が、こんな風に涙を千歌音に見せてしまうなんて。
「…っ!?」
不意に千歌音が私の首に両腕を回し、包むように抱きしめた。突然の事で慌てている私を差し置いて、千歌音は私の頬に柔らかく口付けをしてくる。
ぐっと唇を離して、何、と叫ぶ。情けないけれど、その時の私の声は驚くほど震えていた。それに気付いてか否か、千歌音はにこにこと嬉しそうに顔を緩ませていた。
今のやり取りのどこに千歌音を笑顔にさせる要素があったのかわからなかった私は、何故かそれが無性に悔しくて半ば仕返しのように千歌音を布団へ組敷いた。
自らの体に覆い被さり、その上両手を布団に縫いつけられているというのに、千歌音は相も変わらず笑顔を絶やさずにいる。
「もう…。何がそんなに面白いのかしら」
「だって、姫子ったら、泣いているんですもの」
ふふ、とまた千歌音が笑みを零す。私が泣くことがそんなに面白いのだろうか。私は千歌音が…精神的な意味ではない方で泣いているのを見るのは面白いけれど、逆は不思議と複雑な気分になる。
そんな気持ちが表情に出ていたのか、千歌音がそんな顔しないで、と私の両頬を撫でた。また複雑な気分になる。
「でね、だからね、嬉しいの。姫子が私で安心できることが。姫子を慰められることが。だっていつも私ばかり姫子に慰められてるんですもの。たまには私にも心配や慰めをさせて欲しいわ」
一瞬の間を置いてから、その言葉の意味を理解した。理解した途端驚きを通り越して呆れさえする。けれど、運命だかなんだかに不安にさせれられていたのが馬鹿らしくなって、…つまりは酷く心が安らいで胸のざわつきも消え失せた。全く、この子には敵わない。
押さえ込んでいた手を離して、千歌音と横なるように布団へ体を倒した。するとすぐに千歌音が私の頭を抱き寄せて、――本人に自覚はないだろうけれど――丁度顔に当たる千歌音の柔らかな胸の感触が少し恥ずかしかった。
それにしても、まさか千歌音に主導権を握られるなんて、不甲斐ない。でも、普段の私なら絶対に譲れないけれど、たまになら主導権を千歌音に譲ってあげてもいいかもしれない。
いつの間にか、嵐は過ぎ去っていた。