酒飲み猫にご注意を
私、如月乙羽は珍しく不機嫌なお嬢様の気分を良くさせる目的で、今カップに紅茶と少量のアルコールを注いでいる。
この様な古くからの名家にあるまじき行為は、私とお嬢様の二人しか知らないし、行っていない。お嬢様はどう感じておられるのか――お嬢様付きとは言え、たかが下女の私如きにわかる筈もなく…けれど、私はこの行為を嬉しく思っていた。
――私とお嬢様の、二人だけの秘密。
この行為だけが、最近住み着いたあの小娘に大層ご執心なお嬢様と私を繋ぐ…とても細い糸だった。
話しを戻しましょう。紅茶を蒸かし終え、アルコールの準備をしようと地下の保管庫にやってきたはけれど、どんなに探してもいつもの瓶が見当たらない。後で下っ端のメイドに買いに行かせよう、と、その場は断念し別の瓶を手に取った。
「…?」
少しだけ紅茶を含んだお嬢様は僅かに首を傾げる。流石お嬢様、紅茶の味がいつもと違う事に気が付いたらしい。
「いつもの瓶がなかったものですから、私の独自の興趣で選ばさせて頂きました。……お気に召しませんか?」
「そんなことないわ。ただいつもと違う味だから驚いてしまって……とても美味しいわよ」
そんなお嬢様の何気ない…少なくとも、お嬢様にとっては何気ない一言で、こんなにも幸福な気持ちになってしまう私はとんだ道化なのでしょう。
だって、お嬢様はあの小娘の事を――…
「それにしても…ふふ。名家の跡取り娘がお酒を飲んでるだなんて、皆が知ったら失望するかしら」
けれど。
「それでも、お慕い申しておりますわ」
お嬢様は少し驚いた様な表情をなされたけれど、直ぐに柔らかな笑みを浮かべた。そうして私に「ありがとう、乙羽さん」と言うと、空になったカップを差し出した。
「もう一杯、いただけるかしら?」
「畏まりました」
渡されたカップに、紅茶を注ぎお嬢様にお返しする。お嬢様がカップに口を付けてそっと傾け、こくりと喉が上下した。
紅茶を飲み干したお嬢様が再度私に「おかわりいただける?」と言いながらカップを手渡した。それを受け取った私はまた紅茶を注ぐ。そしてまたお嬢様が紅茶を口にする。
……なんだかペースが早い。
「おかわり」
「…あ、あの、お嬢様?」
紅茶を注いだをカップ手渡しながら恐る恐る声をかける。
「ん?なぁに」
紅茶を飲みながらこちらを向いたお嬢様のお顔は、耳の裏まで真っ赤に染まっていた。
サー…、と一気に血の気が引いていく。
――やってしまった。
「お嬢様!酔っておられますね!もう紅茶はおしまいです!」
お嬢様の手からカップを取り上げると、お嬢様が名残惜しそうに手を伸ばす。お嬢様の手が届かないように手を伸ばす。…良い年して何故幼子の様な事をしているのでしょう。
やがて自らの手が届かないをわかったお嬢様はムッとした顔をする。
「私、酔ってなんかいらいわよ?」
「舌が回ってません、お嬢様。明らかに酔っていますわね…」
「酔ってらいわよ」
「あぁっ、私がこんな度の強いアルコールを混ぜたばかりに…」
「酔ってらいって言ってるでしょ!」
ガターン!とテーブルを叩きながら、椅子が倒れるほど勢い良く立ち上がるお嬢様。そしてポットを掴んだと思ったら徐に口元へ寄せる。
「いけませんお嬢様!」と間一髪でポットを奪う。全く…名家のお嬢様が口飲みだなんて。
ポットをお嬢様の手の届かない所――部屋の隅にある棚の上に置くため、お嬢様に背中を向ける。不思議とお嬢様は何も言ってはこなかった。てっきりまた暴言を吐いたり、ポットを奪いに来ると思ったのだけれど。
そうして棚の上にポットを置き、お嬢様の方を向こうとしたその時。とん、と背中に何かが当たった。
「……お嬢様?」
振り向いた訳ではない。ただぶつかった「何か」から体温が感じられた。
――お嬢様の息が荒い気がする。
「お、とはさ……」
「どうなさいました?」
「体が、熱いの……っ!」
「………へ?」
「お願い、おとはさん…ッ」
熱の籠もった声色でそう懇願され、目の前が真っ白になった。
「お、おおお、お嬢様!?」
呂律の回らない状態で「お願い」と言ってくるお嬢様は、まるで私を求めているようで、それを意識してしまえば今背中に当たっている二つの柔らかい感触が否が応でも動機を早くさせる。
お嬢様がそんな事をお思いであるはずがないうのに、それでも顔が熱くなった。
自分を落ち着かせる為、深い息を吐く。
………よし。
「お嬢様、落ち着いてくださ――」
そう振り向こうとしたその時、お嬢様の手が前に周り、きゅっと控え目に私の体を引き寄せた。
「――――ッッッ!!!!!」
いけない。
これはいけない。
これはもう反則だ。
むしろ罪の域だ。
これでは来栖川様や私に襲われても文句は言えないのですよ?
襲われても
襲われても…
襲わ………
「お嬢様…」
ぐるりと体を回転させてお嬢様と向き合う。未だに抱き付いているお嬢様の肩に手を起き、ぐっと体を離す。
お嬢様はきょとんとした顔で首を傾げながら私を見上げている。もう止めろと言われても止められない。
お嬢様が悪いのです。そんな可愛らしい仕草で私を煽るから。いや、そもそもの原因は私にあるのですが。
「おと…は…さん…?」
「なんですか?お嬢様」
「や…っ、なんか怖……、きゃっ」
私が少し力を入れて肩を押すと、お嬢様は簡単に床へと倒れた。そこに透かさず覆い被さる。
「乙羽さ…っ」
「お嬢様、申し訳ございません…」
そう言って唇を重ね――
「こんにちはー。乙羽さん、こっちに千歌音ちゃん来てません…か……」
こんこん、というノックの直後に扉が開き、そこから小娘…来栖川様が姿を見せた。
一瞬にして空気が凍る。…しかし、そんな空気を読めていない方が一人。
「あ、ひめこ!」
ぱぁっ、と満面の笑みで私の体の下から抜け出し、どたどたと来栖川様の元へ駆けていくお嬢様。そのまま腕を来栖川様の首へ回し、甘えるように抱き付いた。
来栖川様はお嬢様から漂う仄かなアルコールの香りに気付いたのか、眉間に皺を寄せた。
「乙羽さんっ、千歌音ちゃんにこんなにたくさんお酒飲ませないでください!」
「えっ、あ、はい、申し訳ありませんでした」
あの来栖川様が先の状況について私を責めなかった事が意外すぎて、つい、素直に頭を下げてしまった。絶対にビンタの一つや二つ来ると思ったのだが。
そうこうしている内に来栖川様はお嬢様を抱きかかえて「少し借りますね」とにこやかな笑顔で部屋を去った。
―――しかし、その去り際にぼそりと囁かれた言葉を、私は聞いてしまった…聞こえてしまった。
「千歌音ちゃん、まだ自分が誰のものなのかわかってないみたいだね…これは直接身体に教え込まないと……」
くすくすと笑い声が聞こえる。
申し訳ありません、お嬢様。私のせいで変な誤解を招いてしまいました。
そう思いながらもその場を動けない自分に、ただただ失望するしか、私にはできなかった。