【腐向け】船街【英西】
「拗ねてねえ」
そういう顔が拗ねてると、俺の目から見ても見事な金髪を揺らして男が笑う。面白くない気分で男を見上げると「はいはい、前向いてな」と促されて、仕方なく前の窓の方に顔を向けた。灰色の海の上を、白い鳥が滑るように飛んでいる。今日は数が少ないのは攫う獲物が少ないからだろうか。
男の手は固くて強い。一度張り飛ばされたときにはずいぶん痛い思いをしたものだった。けれどこうして髪を梳くと、丁寧な手つきのせいか別人のように柔らかく感じられた。
仕事相手に女が多いとそんなものなのかもな。
視線だけを斜め下にやる。腰に巻いているエプロンには商売道具の鋏や櫛が突っ込まれている。髭剃り用の剃刀も入っていたが、これは自分用だからねと男は豪語していた。女の子相手じゃないとやる気でないもん、とウインク付きで言われたときは呆れ返ってしまった。男は手抜きか。
今更ながら不安になってきた。指で髪を挟み、何度か髪の長さを確認するような動作を繰り返してから、男はふうん、と感心したように呟く。
「お前髪質さらっさらだなあ。紐で結ぼうとしても括りにくいだろ」
「え、いや……」
別に括りにくくなかった、と否定しかけてぐっと呑み込んだ。脳裏を過去の生活が過ぎっていた。奇妙な沈黙を男は知らない振りで、しゃきしゃきと鋏を鳴らしてみせながら「おにーさんにお任せでいい?」といつもの気の抜けるような声で言った。
「頼む」
「はあい。おにーさん頑張るー」
そう返す声も、実のところとても気を使って返されているのを俺はもう知っていた。前髪を指が掬う。目を瞑ってろよと言われたので、おとなしく瞑った。冷たい鉄の感触が少し額に触れる。鋏の音に髪が切られる音が交じる。
痛んだ毛先が切り落とされていく音を聞きながら、俺は髪を括るのに苦労しなかった時期を思い出していた。
あの事件の後、俺は隣町の奴に助けられた。猛烈な喉の乾きから隠れていた森を這いでて、焼け焦げた家の残骸の間をうろうろしているところを見つかったらしい。連絡を聞いて駆けつけてきたのがこの男だった。フランシス。アイツの友人で、村にいたころに俺も何度か会ったことがあった。事の次第についての俺の話はたぶん脈絡もなくてとても聞きづらかっただろうが、この男は根気強かったし、なにより聞き上手だった。ひと通り話す頃には俺もずいぶん落ち着いていた。だから期を選んで切り出された俺を引き取るという話に、俺も特に混乱することはなかった。他に頼るつてがなかったのもあったからだったかもしれなかったが。
引き取るという話は、俺自身は頷いただけだったが、知らないところでどんどん動いていた。この部屋にいるのも、前に住んでいた狭苦しい部屋を引き払ってきたからだ。俺がここにやってきたとき、既に俺用のベッドや細かなものもきちんと準備されていたのには驚いた。いいのかと思わず男を見上げた俺を「子どもはそういうの気にすんじゃないの」と笑って大きな手で撫でた。くしゃくしゃと掻き混ぜるような頭の撫で方はアイツに似ていた気がして、苦しくなった。
以来、俺はここでフランシスの手伝いの真似をしながらここで暮らしている。
この町には港があり、船が月に何度かやってくる。殆どが規模のちいさな商船で、見上げるような大きな船には出会ったことがない。武器といっても大砲というには名前負けしそうな、威嚇用の大砲がちょこんとついているのを見かけるばかりだ。下ろされる荷を横目に、そんな船を眺めながら、俺は安心しながらも落胆していた。
―――あのとき聞いた絶え間ない大砲の音。
見つかった遺体の中にアイツはいなかったという。それを聞いたとき、俺は胸の中に火が灯ったような気がした。見つからなかっただけかもしれない、そう思わないでもなかったが、俺にはなんとなく確信があった。
アイツがハルバードを担いで出ていってしまったことを話したときの、フランシスの表情。俺は嫌になるくらい子どもだったけれど、あの顔の意味を取り違えるほど馬鹿じゃないつもりだ。あの、何かに思い当たったような顔。
(―――あれは訳知り顔だった)
恐らく、フランシスは何かとても重要なことを知っている。あの日来た船のことも、もしかしたらそれがどんな奴かということも。
そして今のところ、この男は俺に何ひとつ知らせるつもりはないらしい。まっとうな子どもになるよう、俺の方が驚くほど気を使って俺の面倒を見ている。穏やかで心地いい生活。胸の奥にくすぶっている感情に知らないふりをすれば、何ひとつ問題はなかった。
(でも俺は、このまま知らないままでいるつもりはない)
被せられた布の陰で手をきつく握りしめる。あの日のことを思うたび、胸に灯った火が一気に燃え上がるような思いがする。でもまだ駄目だ。苦い気持ちで堪える。もっともっと大人にならなくちゃ。転んで泣いている子どもじゃ駄目なんだ。
薄く目を開いた。窓の向こうに灰色の海が広がっているのが見える。望む船を探すように目を凝らす。大きな、大砲をいっぱい乗せた船を。幸せでいっぱいだった生活を叩き壊した元凶を。
海は灰色、空も灰色。二つの灰色は今だに重苦しい色で、共に水を含みながらその色をうつろわせていた。
作品名:【腐向け】船街【英西】 作家名:ケマリ