言葉にならない
魔が差したとしか言いようがない。
あの時の事が脳裏を過ぎっては歯噛みしたくなる。
そんな理由で最近はのべつ幕なしに、静雄に混乱の種を仕掛けるのには完全に八つ当たりという意味も含めていた。
どよめきと同時にガラスが割れ飛び散っていくのを対岸に見る。臨也は扉の施錠が外れた手応えを確認すると、部屋の中へ身を滑り込んだ。鬼ごっこから少しの間休む為だ。
しかし今日は―
「あれ?臨也?」
そこに居たのは顔見知りの人物で。現れた想定外の人物に、臨也も新羅?と驚きの声を上げた。
「君、合鍵でも持ってるのかい?鍵は閉めたはずなのに、扉が開いたから驚いたよ」
人によっては厭味とも取れる新羅の言葉選びは、臨也が新羅を好む理由の一つでもある。但し。本人には自覚がないのは十分な欠点でもある。
「俺もまさか、新羅と保健室っていう取り合わせがこんなに違和感を感じるものだったなんて、予想してなかったな」
応酬の意味も込めてはみたが、きっと新羅には伝わらないだろう。―さて、本来ならば一人静かに身体を休めようと思っていたが―まぁ、新羅が居ても何ら害にはならないだろう。思い直して手近なベッドへと腰を下ろす。
もうじき昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るだろう。今は少し休みたい。そのままベッドへ倒れこんだ。
「僕もそう思うよ。臨也は怪我でもしたのかい?それともまた静雄君と何かしているの?旧態依然、君たち毎日同じことを繰り返しているね」
矢継ぎ早に投げられる質問にウンザリとする。枕に顔を埋めながらヒラヒラと手を振って答えた。
「説教されるのはドタチンだけで十分だよ」
「ドタチン?ああ、門田君のこと?」
そうだと頷くより先に、ミシリと戸が軋む音がした。
人は人生で何度、扉が二つにへし折れ、吹っ飛んでいくのを見ることがあるのだろう。
そんなことを思いながら臨也は束の間の休息だったと、溜息を零して身体を起こした。扉があったはずの空間には、一人の男が立っていた。
「やぁ、今日は早かったねぇ。シズちゃん」
「手前…、俺から逃げんじゃねぇって言ったよなぁ…?」
「そんな怖い顔して追いかけられたら逃げたくもなるよ。シズちゃんがもう少しにこやかに話してくれたら、俺も逃げなくて済むんだどなぁ。…まぁ、無理だろうけど」
「手前が逃げなけゃ俺もにっこり笑って捻り潰してやれんのになぁ、ノミ蟲。ああ、残念だ!それとも何か?追いかけてきて欲しくて逃げてんのか?相手してやってんだから逃げるこたねぇだろ、なぁ?臨也君よ?」
言葉の端々に怒気を孕ませ、静雄の掴んだ身長測定器がミシミシ音を立てた。
「シズちゃんにしては面白い冗談だね。でも残念ハズレだ…よっ!」
仕切りカーテンが勢いをつけて翻り、静雄の視界を遮る。咄嗟に顔を庇った静雄はカーテンの端を掴んでレールごと引き千切った。だが、そこにもう臨也の姿はなかった。
「…ぁんの野郎…!!おい、どっちに行った?」
新羅は肩を竦める。君の方が分かるんじゃない?という言葉が喉まで出掛かったが、そこで堪えられたのは奇跡だ。
「次は移動教室だよ、静雄君」
分かってる。と短く答えて静雄は目隠しの意味を無くしたカーテンをベッドに投げ捨て保健室を後にした。
台風一過―新羅は考える。
静雄は気付かなかったかもしれないが、新羅の位置からはとてもよく見えた。静雄の言葉に臨也の指が微かに震えたのが。その事が今後、彼らの関係にどんな影響を及ぼす事になるかまではとても想像出来なかったが、この惨状で自分が謝罪する姿は少し想像できてしまった。
暗中模索―臨也は思う。
どこまで逃げ切れるのだろう。どこまで追ってくるのだろう。
このところ静雄は執拗なまでに追いかけてくるようになった。以前までは―、例えば今昼休みの終わりを告げているこのチャイム―、こういった何かの切っ掛けで諦めて帰っていくこともあったのに。
最近では何があっても追いかけてくるのだ。扉、壁、人間、距離、時間。ありとあらゆる障害があろうとも、ものともしない。そして最後には必ず―捕まえられるのだ。
一心不乱―「ようやく捕まえたぜぇ…、臨也君よぉ…!」
体勢を崩した臨也の両脇にすかさず、覆い被さって両手を付いて逃げ道を断つ。喉が引き攣れ、肩が大きく上下する。臨也も辛そうに天を仰いで体全体で酸素を求めていた。
逃げるから追うのだと何度言っても伝わらない。
最近では第三者を介入させて自らは姿を見せないこともある。どんな些細な事があろうとも辿って行けば結局は臨也に繋がる。それなのに追うことすらさせようとしない。以前よりもチラチラと脳裏を掠める臨也の存在に余計に苛立ちが募った。
それもこも全てこいつのせいだ。
逃げる隙を伺っているのか臨也は静雄に目もくれない。
あぁ、苛々する。
右手を支えていたコンクリートが悲鳴を上げて表面に亀裂を走らせた。臨也の腕が反応するように持ち上がる。逃しはしない。
臨也の一挙手一投足を見逃すまいと視線に、手に力が入った。静雄の意識に呼応するかのように床がビシリと更に亀裂を広げていく。臨也の指が静雄の手の甲に、触れた。
それはまるで電流が走るような感触。
「本当…、しつこいよ、シズちゃん…。休ませても、くれないしさっ…、」
酸素が足りずに臨也が咳き込む。
触れている箇所が熱い。
臨也は一向にこちらを見ようとしない。故意に逸らされているのだとようやく気づいた。
「おい…」
静雄の声に僅かに臨也の動きが止まった。
束の間、二人の間に沈黙が落ちる。
「ほんっと、…もう…嫌になる…」
零れ落ちた言葉と同時に指先を絡められて、
静雄は、
「―――っ」
喉までせりあがった何かを飲み込み、考えることを今だけは全て放棄した。