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指先から二センチ

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 完璧である事が使命ならば、奴はそれを涼しい顔で全うするのだろう。

 俺の不安定な感情が生まれた頃おいが定かではないにせよ、日進していく己の意中に、この脳みそは完全に置いて行かれている。異性を周りに侍らしているあの、恋愛倒錯者たるミストレとは違い、俺はこういった感情を遥か昔に置いてきたのだ。時代の敗残者である愚兄の代わりに闘うことを決めた日から、俺は余計なものを切り捨ててきた。
そういった意味では、奴は俺以上に極端に全てを仕分けし選びとって生きている。奴が大凡切り捨てていそうなものに夢を見るこの不毛は、どうあっても心の奥底にこびり付いて離れない。

「君も愚かだね」
 それはもう見事なほどの戯笑を浮かべたミストレは、髪の先を弄びつつ視線をこちらへ向けた。
特殊訓練のさなか、集められた面々の中でも特に異彩を放っている隊長殿は、与えられた課題を誰よりも完璧に、そして十全にこなしている。満を持して、毎時のプログラムを行う彼を、先程までの自分の出来と比べて舌を巻くのがここ最近の日課である。

 いつだったか、奴にディベートによる大敗を喫したとき、俺は奴との差を愕然と感じたものだが、それはまだ序の口だったことが分かる。特別任務のために付き合う時間が長くなった現在、噂のバダップ・スリードがいかに特異な人間かというのを弥が上にも知ることとなった。

「何だよ、いきなり」
「あれは、オレたちとは違う人種だよ」
「んなことは、言われなくても分かってる」
「さあ、どうなのかな?」
 何かにつけて変に聡いミストレは、全てを見透かしたような物言いをする。これがこいつの味だと分かってはいても、この件に関しては些か焦燥的になってしまう。自身でさえ判断できずにいる深層を、よもや把握されることもあるまいに。罪の意識からか、己の小ささに辟易とする。

「というか、否定しないの?」
「してどうする」
「本当に君は、潔くて好意がもてるよ」
「そりゃどうも」
 視線を闘技場へ向けたミストレはその中央を凝視し始めた。その先を追いながら、散漫になっていた意識をもどす。
 まさに轟音である。迫り来る球を見極め、かわし、指定されたものを跳ね返してゴールに見立てた防壁へ撃ち込む。並の脚力、動体視力、判断力、身体能力ではこなせない全てを、奴は当然と言った顔でやりとげる。何発も何発も打ち込まれるシュートからは空間の歪みさえ目視できる。奴が誰よりも必殺技会得に近いことを感じさせた。

 愛だの恋だの、そんな世俗的な事柄はあまり好かないにせよ、現状俺の抱えている膿の正体は紛れもなく、バダップ・スリードへの恋慕だろう。手を繋ぎたいだとか、キスをしたいだとか、はたまた押し倒して欲望をぶつけたいだとか、そういう即物的な感情よりも、もっと他の部分が疼いているのだから質が悪い。感情は手に負えない。抑えようとしても、こうした想いは抑制されるほど強くなるものである。


 今日も一日、完璧を貫いている男は、あれだけの訓練を終えたというのに、更に自主鍛錬に精を出している。化け物じみていると感じつつ、漫然とそれを見守る。けっきょく、施設の使用時間の制限ぎりぎりまで訓練をしていた奴は、疲れを感じさせない表情でシャワールームから出てきた。昔から用いられている形式のものではなく、早さと効率のみを考えた洗浄機で済ませてしまうのも、この男の本質であろう。
 糊の張った清潔な制服に身を包んでいる奴は、渡り廊下で待ち伏せていた俺を一瞥すると、無言のまま歩みを進めた。そしてそれに続いた俺に淡泊な声を発する。

「何か用か」
 俺は口を噤み考えた。こうして意味のない行動ばかりする自分が、また意味のないことを繰り返そうとしている。燃えるような恋心ではなく、心に寄生したような慕情である。

「俺はお前が好きだ」
 口にして、その不的確さに苦笑してしまいそうになった。好き、愛している、そういった言葉では到底表せないような、複雑な感情が渦巻いているというのに。

「お前からそんな言葉を聞くとはな」
 眉一つ動かさないでよく言ったものである。ただ、先程まで寸分狂わぬ速さだった奴の歩みを止めることが出来たのは暁光だった。振り向いた瞳の奥、感情がその海に沈んでいた。

「俺もそう思うぜ」
「それで、……君は俺に、何を要求しているんだ」
 酷く事務的な言葉を使って問うてくる相手を見つめながら、俺は半ば途方に暮れていた。しかしこの、事務的な言葉遣いこそが奴の動揺を示しているのかもしれない。一歩半前に進み出て、俺は覗き込むようにして奴を見上げた。

「確かめたい」
 大きくもう一歩踏み出す。その拍子に奴の腕を掴む。自分でも驚くほど力がこもっていた。俺の言葉の意味を量りかねている奴は、訝しげに次の言葉を放とうとした。それを、身を乗り出すことで阻止した俺は、奴の唇に噛み付いていた。

 この不毛な気持ちが確かならば、嫌悪を感じないだろうといった試験的な行動だった。だが予想外に触れた舌頭から炎が宿ったように熱くなり、たちまち体全体を呑み込まれてしまった。混乱し対処の仕方を思考している奴は、咄嗟に俺を引き剥がしたりしない。

 愛撫よりは貪る、と言った表現の方が正しい。唇を噛んで歯並びに舌を這わせ、前歯の間から舌頭を侵入させて、奴のものを絡め取る。苦しそうな息継ぎの音と、ようやく奴が俺の肩口を押したことで我に返り、相手を解放した。

「気は済んだか」
 狂おしい余韻に呑み込まれてしまいそうだった。奴の言葉に下方へ向いていた視線を上げる。その瞬間、情けないことに熱が急上昇するのを感じた。
 今、バダップ・スリードは口許を必要以上に引き結び、眉を寄せながら、何とも言えぬ感情のままの表情を浮かべていた。
 初めから恋愛観が欠如している奴からの見返りなど望んではいなかった。この男は、自分の決めた範囲で生きており、俺以上に極端に、全てを仕分けし選び取って生きているのだ。しかし切り捨てたものを突きつけられると途端に弱ってしまう、そういう所に愛おしさを感じて止まない。
 唇を重ねた時以上の実感が俺の中を占めている。『愚かだね』というミストレの言葉が甦っては激情の中へ消えていく。腕を掴んだままだった手を下方へ滑らせ、手套をつけた奴の手をとると、その動揺が手先から伝わった。

「好きだ」

 この感情の真贋を量ることができた今、言葉は何よりも鋭く冴え冴えとしていた。噤んだ唇を震わせ、次に起こすべき行動に迷っている相手の隙をついてその指先を噛む。見上げたさき、愛おしいその表情が、俺を捉えていた。


作品名:指先から二センチ 作家名:7727