数十ミリ
王牙学園の定期健康診断は念入りに行われる。身長、体重、視力、聴力はもとより体力測定、血液摂取やら内臓診断、など様々である。小さな綻びも体が資本の士官候補生には大きな脅威となってくるのだ。
箱形の特殊な検査機の前に立ったエスカバは無意識の内に眼光を鋭くしていた。感情を見逃さない周囲は常にエスカバの緊張感を高めていく。目前から抽出される機械音を出来うるだけ意識から切り離す。彼は今、検査のために支給された白地のTシャツと長ズボンに着替えた状態だ。
号令の後、横並びになった五人が気を付けをする。そうして次の号令で一斉にその中へはいる。旧式のロッカーのような印象の中では僅かな圧迫感を感じた。背筋を伸ばしたまま視線を表示されているラインに合わせると上から青い光が下りてくる。足先までをゆっくりと通過したそれは消失し、次に腹の辺りから頭の方、足の方へと二対の紫の光が通過していく。最後には下方から出てきた赤い光が頂点を通過して検査は終了する。
合図と共に検査機から出、次の項目へ向かう。その途中、擦れ違ったミストレが視線でエスカバを追い、口角を上げた。陶器の如く滑らかな肌は、漏れ出す光を受けて淡く色付いている。その表情には今、常日頃彼がよくしている、あの得意げにも感ぜられる色が乗っていた。口許へと注がれていたエスカバの瞳は、相手の作った形の変化で言葉を読み取る。声になっていないそれを把握したエスカバは、かけられた号令に優雅に応える相手の姿を苦々しく見送った。
全ての工程を終えて、ようやく待ち望んでいたまともな食事に有り付ける、そんな昼食時である。生徒たちは皆、軍服姿に戻っていた。相変わらず取り巻きの女子を引き連れたミストレが、食堂の前で何かに気付いたらしく、二、三言告げるとその群から離れた。未練がましそうな女子達はしばらくミストレが向かった先を見つめていたが、ミストレの目的の人物がかの有名なバダップ・スリードだと分かると次々踵を返していった。
並んだ二人が会話を始める。というよりもまたミストレが一方的に何かを喋り、バダップがそれに最低限の言葉で返すだけのだろう。空間の歪みに浮かび上がった赤色の光が、眼前を通過していく幻想を見た。
エスカバはミストレのように取り巻きを連れ歩くことを好まないので、基本的には一人で行動している。誰に気を遣うでもなく、彼はそのままの足で二人へと近付いていった。一方的な会話にエスカバも参戦し、食事を始める。用意されたものを、バダップは摂取という言葉が似合うように、無感動に口に運んでいく。ミストレは食事に対する快楽をあまり感じないらしく、退屈そうに食べる。エスカバ自体も食事に特段思い入れはないが、三人の中では一番まともに食すということを楽しんでいた。
「君はよく食べるね」
「そういうお前は全然食べねーな」
「保つから良いんだよ。オレは効率的な人間だから」
食事を終えた皿にフォークを乗せたミストレは、すぐに話題を変えようとする。本当に興味がないのだろう。それを何とはなしに覆したエスカバは、バダップへ視線を向ける。
「あんたも男にしては余りがっつかないな」
「必要摂取量はきちんと摂ってる」
「必要摂取量ねェ……」
次いで食事を終えたエスカバはフォークを置いて、ミストレが変えた話を流し流し聞き始めた。
*
「そう言えばエスカバ」
指定された練習場へ向かう過程で、呼び出しをされたバダップが抜けて今はひとけのない廊下に二人きりである。地下へ下りるための特殊なエレベータへ乗り込むため、数段の階段に足を乗せたミストレはそれを止めて振り返った。彼の髪が揺れる。自信に充ち満ちた彼の表情は明るい。
「身長、どうだった?」
「アー……」
「オレはね、」
階段に乗せていた足を引き戻し、エスカバへ近付いていった彼はその耳元へ小さな声を放つ。それを聞いたエスカバは眉を寄せた。その表情から自分の勝利を確信したミストレは、色めく唇を弧にした。
「またオレを超せなかったね」
「余計なお世話だ」
「見てたでしょう、オレとバダップを」
「……だから?」
「気にしてないふり!」
世間一般に天使の微笑みと呼ばれているものよりも、少し蠱惑的な笑みを浮かべたミストレは、エスカバに緩やかに詰め寄った。彼の自信は確信によって成り立っている。そしてそれは揺るぎないのである。
苦々しいものを飲み干したエスカバは奥歯を噛んでいた。そうだ、確かにミストレの言うとおり、彼はバダップとミストレの間で目に見えるあの差に僅かな嫉妬心を覚えたのである。馬鹿げた話だ。どうしようもないとは思いながら、知られてしまったのでは仕方がない。特段隠そうともしないエスカバに、少しだけ表情を曇らせたミストレはその後、すぐに笑みを取り戻す。
「ねぇ、上がって」
先に階段へ上らせたエスカバが、二段目を踏む前にミストレは相手の手を引いた。立ち止まったエスカバが見遣ると想像以上に近い位置に相手の顔があった。独特な、艶っぽい香りを近くに感じたエスカバは、唇に甘い吐息を受けた。ゆっくりと重なった部分を意識する前に、離れたミストレが見上げてくるのを目視した彼は柄にもなく怯むのを感じた。ミストレーネ・カルスと言う造形美はそれ程までに脅威なのである。
「この位が丁度いいよ、……頑張って」
至極愉しそうに言い放ったミストレが追い抜く。一気に身長差がついた矢先、エレベーターへ乗り込んだ彼に促された。流されっぱなしの自分がらしくないことに舌打ちを落としながら、エスカバは相手の頬が僅かに赤くなっているのを認めた。光の加減でも色でもなく、確かに仄かに色付いている。
「余裕、ねぇな……」
自分も相手も。そう思いながら足を進める。腰に手を当てている相手の腕を取りながら、上がる勢いで再び唇を奪う。ただ一人満足そうだったミストレに一杯食わせてやったような気分になったエスカバは、片頬笑みを浮かべながら後ろで閉まる扉を感じた。
下方へと移動していく高速のエレベーターの中、数十ミリほどしか違わない身長が、並んでいる。