無題
自分の手も見えぬ程の、闇。
今日は月明かりすら僅かしか届かない深い森の中で一晩を過ごす。森の入り口の地点で引き返しておけば良かった。そこまで長くもないと高を括ったのが祟ったのか、その森は予想を大きく上回り一日を費やしても抜ける事はなかった。
――こんな夜は不安になる。直ぐにでも目の前の暗闇から手が伸び、自分の首を絞めてしまいそうで。
そんなものは只の不安からなる幻想に過ぎない。けれども、何故か生まれる前から死の恐怖を知っていたイヴェールには耐え切れぬ暗闇だった。
せめてローランサンが側に居てくれればこんな不安も、僅かな震えも、治まってくれるのに。けれどもローランサンは薪を探しに更に奥へと行ってしまい、まだ戻ってこない。なんでも、森で一晩過ごす時は獣を寄せ付けない為に火が必要なんだとか。
暗闇から逃げるように毛布を頭まで被るけれど結局は暗闇、日が昇らぬ限り逃げられはしないのだ。
「…なにしてんだ、お前」
毛布から顔だけを出して声の主を見る。やっと戻ってきたローランサンは両脇に沢山の薪を抱え、呆れた顔でイヴェールを見下ろしていた。
夜の森で無防備に寝てると獣に喰われるぞ、と僅かにからかった様子でローランサンは言い、イヴェールの隣に腰を下ろす。そのまま石で囲っただけの質素な炉に薪を散らせ、そっと火を点けた。
その温かな光を前にしても、不思議とイヴェールの体の震えは止まらない。それに目敏く気が付いたローランサンは少しだけ不安げな表情でイヴェールの顔を覗き込んだ。
「なんだよ、怖い夢でも見たのか?」
「……まぁ…似たようなモンだ」
何時ものローランサンを小馬鹿にしたような声ではなく、何かに怯えるような声にローランサンは少し困った様な顔をする。
普段あんなに喧しく意地の悪いイヴェールがこうも大人しいと調子が狂ってしまうのだ。
そのやるせなさに耐えきれなくなったのか、ローランサンはがしがしと自らの髪を掻き乱す。
意地の悪いイヴェールよりは今の大人しいイヴェールの方が何かと有り難いのだが、その原因がイヴェールをこうも震え上がらせるものならばなんとかして取り除いてやりたい。つまりは、いつものイヴェールに戻って欲しい、というのがローランサンの本心だ。
けれど自分に何ができるのだろう、と首を傾げて唸る。…全く思い浮かばない。
「……ローランサン」
「あ?」
「ちょっと…こっちこい」
言葉自体は乱暴だが、そこからはいつもの覇気が感じられない。余程怖い夢を見たのだろうか。
なんの警戒もせず言われたままにイヴェールの元へ寄ると、突然腕を引かれ抱きしめられてしまった。なにしやがんだ、と声を荒げようと唇を開いたが、イヴェールの表情を見て何も言えなくなってしまった。
あの、意地が悪くてケチで腹立つくらい口の上手いイヴェールが、泣きそうな顔でローランサンを抱きしめている。
加減の仕方もわからなくなってしまったのか、ローランサンを抱く腕の力は強くローランサンは顔をしかめた。
「いってぇ、よ、馬鹿」
「………悪い」
謝りはしたがローランサンを抱く力は一向に緩まない。先の「悪い」は「力は緩ませられない」という意味の「悪い」だったのだろうか。
はぁ、とローランサンは深い溜め息を吐く。
「後でうめぇもん食わせろよ。もちろんお前の奢りでな」
野郎に抱きしめられるなんて気持ちが悪くて仕方ないが、イヴェールは大切な「相棒」であり「道具」だ。いつか自分が復讐を果たす時、力になる存在だ。復讐を果たすまでは、倒れられては困る。
それだけ。他に余計なものは何もない。何かあってはいけない。
ただ、ローランサンにすがりついてきた時のイヴェール表情は、あの日見捨てた少女の表情に酷く似ていた。