染まる心臓へかしずく
画用紙の貼られていない年季ある肌を晒したカンバスに残っていた、一代前の作品の切れ端を剥がしきる。取り出して来たのはまっさらな広い画用紙や大きい採寸の刷毛、それに所々を絵の具にこびり付かれた水入れ、薄く冴えない色をしたテープの一式。
大まかな広さにした画用紙上を大胆な動きで水分を吸わせた刷毛が滑る。てらり、光るその一面を乾かない内にカンバスへと被せていく。端の余りを折り込んでテープでもって固定する。カンバスを持ち上げ廊下に出て、美術室側の壁に立て掛けた。窓の外の遠い喧騒が少しだけ近付く。すぐに一定の音量を保つ部室に、上履きを鳴らしながら戻れば寝っ転がる静けさが際立った。
「何を描くの?」
「そうですね、帰る場所でも描きましょうか」
「それはどんな処かな」
「とっても広いんですよ」
「へえ」
「それに仲間が居ます」
「ふうん」
「先輩も一緒です」
「そっか」
「泳げます」
「それは素敵だね」
「はい」
「じゃあ、その絵は取っておいた方がいいかな」
「いえ、いつも通りでいいですよ」
「いいのかな」
「ええ、喜んで」
抑えきれない喜びから出来た会心の笑顔と、照れと喜びに誘われた嬉しさが同居した笑顔を交換した。
他の部活動とまた一層熱気の欠けた空気である美術部へと、先輩は用事なく頻繁に訪れる。さりとて筆を持つこともない。何処か恍惚とした表情で作品を鑑賞せてゆくだけで、十分かそこらで未練そうにしつつ場を去る。
偶にある丁度自分以外の部員が不在の機会に、懸案事項として引っ掛かっていたので故を尋ねてみた。
「おいしそうだから」
「絵が、ですか?」
「うん、すごく」
「…俺、自分の絵が苦手なんですよね。よかったらどうぞ」
「いいの?」
「はい」
「ありがとう。それじゃ、いただきます」
ふらりとカンバスに近付いたかと思えば、目を閉じ唇を絵にくっ付け接吻。そうすると、次第に絵の色が接触部位から溶けるように薄れていく。絵の具のムラはそっくりそのまま、白い絵画が出来上がる。
「ごちそうさま」
此方を振り向いた瞳は、様々な色を混ぜてなったような深い色合。それは、とても綺麗ものに思えた。
餌付けって、案外簡単にクセになる。お代はいつ頃請求しようかな。筆を動かしながら、そんなことを本気半分に考えた。
近距離で覗き込めばさぞかし、瞳は更に綺麗に見えるだろう。好みの色を多めにして混ぜたのなら、より。
作品名:染まる心臓へかしずく 作家名:じゃく