夜のドライブ
(あの平和島静雄が、大人しく腕をひっぱられていった!)
そんな目撃情報がメールでつぶやかれたものの、誰の興味もひかずに、あっという間に他のメールに流された。その日池袋では、聖辺ルリが主演する映画のロケが大がかりに行われており、その話でもちきりだった。
(露西亜寿司の前でロケやってる。まじ、カワイイ!!)
(あ、こっち見た。目があった! すげー! こっち見て笑った!)
(げー相手役、幽平じゃないのかよ)
等々。
ともかく、その日は誰も平和島静雄のことを気にもとめてなかった。もちろん、静雄の腕を引っ張ってた若い男の正体にも気付くこともなかった。
***
いくどか着火をこころみて、ようやくライターのガス切れに気付く。くわえたままの煙草をあきらめて、携帯灰皿の中に放りこむ。ついでに愛用のサングラスを外して、胸のポケットにしまった。タイを外して、シャツのボタンをひとつ外す。
ほっと一息ついて、やわらかい座席に背を預けて、外の景色をなんともなしに眺めていると、池袋が、どんどん遠ざかっていく。
これから、どこにいくのか聞いてなかった。煙草が吸えなくて、口元が物足りない。
(ま、いっか)
そんなことは、どうでもいいけどよ。どうせ明日は休みだし、このまま、どこに行ったっていい。まるで寝入る前の、ほんの少し投げ遣りな気分だ。
「兄貴」
ハンドルを握った幽が、ぼそりとつぶやく。窓ガラスにその横顔が映っていた。
会うのはすげえ久しぶり。直接話すのも、この車に乗るのも。弟は多忙だった。滅多にテレビも新聞も見ないけれど、街中には、羽島幽平のポスターや看板があふれている。
「あぁ、なんだよ」
「怒ってる?」
思いもしないことを言われ、驚いて振り向く。幽の横顔にも、声にもほとんど変化がない。昔から幽はこうだった。おれとは真逆。それに救われるような、それでいて何か胸が痛む。なんだか引け目がある。幽がこうなのは、自分のせい。そして弟が、どんどん前に進むのに、自分だけ何一つ変わっていないような。
静雄は目をそむけて、もう一度窓の外に目を遣った。それでも見てしまうのは、幽の影ばかりだ。あの幽が今や、羽島幽平、だ。もう自分ひとりの弟じゃねえんだな、と時々おもう。弟の活躍はうれしいけれど、少しさびしい。
「怒ってねえよ」
「仕事中だったんじゃない」
「ちょうど終わったとこだし」
「なにか、約束があった?」
「なんにも、ねえよ」
幽にはめずらしく口数が多い。それを訝しく思いつつ、まともに幽の顔を見られない。
「なんだか、怒ってるみたいだ。兄貴」
「だから怒ってねえよ」
軽く舌打ちをする。怒ってるつもりなんてない。でもこれ以上、聞かれたら、ホントにキレてしまいそうだった。それは怖い。過去何度か、詰まらないケンカから、幽に怪我をさせかけたことがある。そんなことはしたくない。でも、ときどき自分でコントロールできない。
「怒ってないなら」
「ああ?」
「どうして、おれのこと見ないの?」
「……そりゃあ」
うまく言えない。理由をかんがえることも苦手だ。ただ、自分が心で誓っていることだけを口にする。
「怒んねぇ。お前には、ぜったいに怒らねえよ」
「そう…」
幽は、顔の表情を変えぬまま、とつぜん急ブレーキをかけた。勢いでしたたか背を打ち付ける。ああ…シートベルトわすれてた…と静雄は今更気付く。
後走車が苛立たしげにクラクションを鳴らして、通り過ぎていった。そのライトがすうっと消えた。
「怒ってねえけどよぉ…、俺なんかといたら、お前に迷惑かけるだろ」
静雄がうつむいたまま、つぶやく。みっともねえ…、と自己嫌悪で頭をわしわしとかいた。
幽は、しばらく押し黙って、ようやくちいさく首を振った。
「久し振りだし、兄貴に会いたかったんだ」
「そりゃあ、おれだって、会えてうれしいけどよ…」
「兄貴」
ふっと、幽が笑ったような気がして、顔をあげた。その、瞬間を狙い澄ましたように、
(うおっ)
顔が近付いてきて、くちびるがふれる。やわらかいような、おかしくて、心地良い感触。長いようなあっという間だった。心拍数だけがあっという間に上昇し、呆気にとられている間に、幽は離れた。ふっとあたたかい息が頬にふれて、背中がぞっとふるえる。
「怒らないよね」
「……」
「今夜は、付き合って」
「……ああ」
ようやく絞り出した声がかすれていた。頬が、やたらと熱い。
幽は前を向いて、なめらかに車が動き出した。
落ち着けと念じ、慌てて、ポケットを探って煙草を一本くわえる。それからライターに指をかける。火がつかないことを思い出したけど今更引っ込められず、ただ不甲斐なく歯をあてた。
いつのまにか首都高にすべり込んでいた。スピードがあがる。壁に遮られて味気なくなる。窓ガラスには、ただ幽の顔だけが映ってる。
しばらくして、ふと気になって、頬杖をついて外を向いたまま、おずおずと訊いた。
「幽、よぉ」
「なに」
「さっき、の、……ヤニ臭くなかったか」
「別に」
「そ、そうかよ」
静雄はいたたまれず、窓の外を見るふりをして、幽の横顔を眺める。ハンドルを握ったまま、まっすぐに前を向いている。ほどほどの、安全運転。ほんと、どこに行くのかわからねえ。まあ、どこでもいいけど、よ。幽とならどこ行ってもいい。ひとごみをかきわけて、街の中を、幽に腕を引っ張られてた時と、同じ気持ち。投げ遣りというよりも、ぜんぶ委ねてしまいたい。
***
(アレ、静雄、いないっすねー)
(珍しいねぇ)
(今日は、平和……ってわけにもいかねえか)
(お、聖辺ルリのロケはじまってるよー)
次の日、池袋に平和島静雄の姿が見あたらずごく数名の間で話題になったものの、池袋はそれなりの喧噪に包まれて日常が過ぎていった。