月と煙
吹く夜風そのものが黒い色を纏っているかのような、深淵な夜に、彼らは今生での縁を切った。
待ち受ける大きな戦の、直前と言うには早い程度のこの時に、忍は早々にそうすることを決めて片倉家に忍び込んだし、また家主も相手の腹積もりに一目で気付いていた。
二人の関係に何と名を付けよう。また、どう形容すれば最も的確に表現できるだろう。
曖昧で不確実で流動的で、殊この時代にはかっちりと存在している制度という枠には収まることの出来ない、それでも確かなのは、身体を繋げて体温を分け合っていたという事実。「純然たる事実」。二人を縛るのはそれだけだ。それすらも、互いに見て見ぬ振りをすればいとも簡単に表面的にはだが、消滅する。
その夜も二人はいつものように身体を繋げて、滅多に上がらない息を上げ、鼓動を早め合った。
猿飛は普段よりも表情が豊かだった。眉根を寄せて見せたり、唇を結んでみたりと忙しなかった。恐らく罪悪感からの解放が、彼をそうさせた。片倉も同じ理由で、腰の動きをいつもより少し情動的にした。だからこの日の交接は、常よりずっと情に満ちていて、何だか互いを情人と呼んでも許されるような気さえした。
目に見えて、猿飛は普段と違う行動を取った。長居などしない彼が、身体が離れた後も片倉の褥に留まって、無意味に今まで自分を抱いていた男の上腕やら鎖骨やらを擽るのだった。
興に乗って片倉も猿飛の乾いた唇にそっと口づけてやった。猿飛は一寸眉尻を上げて見せた。
不意に煙管を喫みたくなったので、片倉はもそもそと起き上がり、用具を取りだした。
猿飛は咎めることなく、褥の中でじっとして片倉の方を見ていた。
「____ああ、」
片倉は暫く猿飛と不自然に目を合わせながら煙管に葉を詰めていたが、不意に彼の職を思い出して用具を片付けようとした。
「いいよ」
ところが猿飛はそれを制した。言葉に刺や毒はなかった。
猿飛にとってこれは儀式のようなものだった。終わりの夜に煙管のひとつも吸わせやしないなんてとんだ野暮だ、という思いもあったが、何か一つ些細なことでも「特別」を用意して、それを見届けようとしたのだ。何か異なったことをしないと、二度と此所に来ない自信がなかった。またうっかり寒いこの地に足を踏み入れてしまいそうだったのだ。運がよければ、次に彼を見るのはその剛健な首を獲る時だろう。
片倉が煙草を喫むところを、当然ながら初めて見た。下品に音を立てて吸う者がいて、その弾けた音を猿飛は嫌ったが、片倉の所作は矢張り洗練されていて優雅なものだった。葉を落とす音さえも綺麗だった。そんな顔をして喫むんだね、と猿飛は発見した。彼の元に通うようになってから、幾つかの発見があったが、何故だか今日の其れが一等嬉しかった。
「俺にも分けて」
猿飛が片倉の羽織を肩に引っかけ、忍とは思えないほど緩慢な動きで片倉に近寄った。
衣擦れの音が矢鱈に響く。虫の音も聞こえぬ、静かな夜だ。
「匂い、つくぞ」
「はは、そのくらいの学はあるさ」
片倉は猿飛の薄笑いをあまり好かなかったが、薄闇の中で見るその顔はどこか風情があった。
新しく葉を詰めて口元に持っていってやると、慣れない様子で一口吸った。猿飛は片倉の裸の肩に靠れかかって、虚空を見ながら煙を音もなく吐き出した。濃い闇に石灰色が白く流れ込む。
肩に感じる頭には確かに重みがあるのに、忍は今にも透けて消え入ってしまいそうに片倉には思えた。もしかしたら此奴は、本当に存在していないのかもしれない。
その仮説はしかし、この煙が消えれば真実になるのだ。奴は存在しなかった。今までも、これからも。片倉の生涯に、一歩も立ち入らなかった。もうあと片手の指で数えられる程度の時で、そうなってしまう。
分かってはいたことだが、気の利いた別れの言葉を言うことも出来ないなんて、少し呆気ないなと片倉は思った。彼は猿飛の思惑に気付かないふりをしていなければならない。明確な終焉を、漠然とした終焉に仕立て上げなければならない。これで終わりか、と何気なく確認することも叶わない。
「___さーて、そろそろお暇しますかね」
猿飛は仰々しく伸びをして、大きすぎる羽織をそっと畳に落とした。髪の隙間から仄かに感じる片倉の体温が、妙に生々しかった。先刻抱かれたときよりも、その体温は猿飛の皮膚に長く残った。後ろ髪を、引いてしまう程に長く伸ばしていたならば、片倉の指先は其れを掠めるだろうかと痴れたことをふと考えた。
「ああ。じゃあな」
「うん。じゃあね」
さようなら、二度と会えない人。
その後に、大坂で大きな戦があった。
片倉の主である伊達政宗も出陣したが、彼自身は病を患い出征が叶わなかった。
もうそんなに長くはないだろうと死期を悟る彼の耳に、真田軍が敗れたという報せが届いた。
何だ、結局直ぐに会えるじゃないかと片倉は自嘲気味に月を見て笑った。