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いつか未来で side愛理

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丁寧にお店の隅々まで磨き上げ、大きく伸びをする。
大きなお店じゃないし、そんなに大繁盛しているわけでもないけれど、大切な思い出が詰まった、そして大好きな人たちが集う、わたしの城。

今日も一日、とても幸せだった。そう思うと、疲れていても自然に微笑が浮かんできてしまう。平和な毎日。

わたしがまだ子供のうちに、両親は亡くなった。
あまりに突然で、あっけない出来事だった。

幼かった弟は、両親の顔すら覚えていないらしい。

らしい、というのは、そのわりにはなぜか弟は自分が生まれたばかりの頃の、家族の肖像を描いたことがあるからだ。
どうしてこんなに細かいところまでわかったのか、と何度も訊ねたけれど、弟は困ったように笑ってはぐらかすばかりなので、そのうちにわたしももう訊かないことにした。

かわいい弟。
わたしのたった一人の家族。
優しくて、真面目で、少しだけ人よりも要領が悪くて、いつもなんだか騒ぎに巻き込まれては「心配をしないで」と謝ってばかりの弟。

この小さな宝物を守るためなら、わたしはどんなことでも頑張れると、そう信じて今日まで生きてきた。

幸い、周囲の人たちにも恵まれ、わたしと弟は毎日を平和に過ごすことが出来ている。
念願だった両親のお店も、なんとか取り戻してやっていけている。

そう、平凡だけど、平和で、幸せで、あたたかい日々。
ずっとこんな日が、続いたらいいと。

ふと、カウンターの上に広げたままのノートが目に入った。

「桜井くん専用レシピ」と書かれたその字は、確かにわたしの字だ。
けれど、わたしにはそのノートを書いた記憶がまったくない。

どうやら誰かコーヒーが苦手な人がいて、その人のためにオリジナル・ブレンドを考えようとしていたようだ、ということはレシピを読むと想像できるのだが、それが一体どこの誰で、どんな人なのかまではさっぱりだ。

そっとそのノートを手に取り、まじまじと見つめてみる。

「やっぱり、思い出せないのよね……」

思い出せない、というのもなにか間違っている気がする。
最初から記憶にないのだ。
忘れてしまったという意識もない。
気がついたらこのノートがあったのだ。

不思議で不思議で、弟にもなにか知らないかと、つい声をかけてしまった。

「姉さん、なに言ってるの?」

弟は泣きそうな顔で、そう呟いた。
なにかを必死に訴えたくて、でもどんな風に言葉にしたらいいのかわからない、うまく自分の気持ちが表現できなくて、泣いてばかりいた子供の頃と同じような顔だった。

それっきり、弟はレシピについてはなにも言わないし、わたしも弟にその話をするのはやめたけれど、ときどき口の端をきゅっと締めた、つらそうな表情を浮かべるようになった。

 わからない。

弟がなにを知っていて、どうしてわたしがそれを知らないのか。
どうして弟はそれをわたしに教えてくれないのか。
なにがそんなに悲しいのか。
わたしになにを隠しているのか。

わからないことだらけだ。

良ちゃん、お姉ちゃんは、もしかして良ちゃんを傷つけているの?
お姉ちゃんが、良ちゃんを苦しめているの?

それとも、お姉ちゃんが苦しめているのは。

「あら?」

今、わたしは誰のことを考えようとしたのかしら。
誰の心配をしたのかしら。

考えるまでもないのに。
今までもこれからも、わたしの一番大切な人は弟。
良ちゃんが幸せで、笑っていてくれたらそれでいいのに。

過保護だって笑われても、からかわれても、わたしは良ちゃんが誰よりも大切。

それは、誰かに好かれたら嬉しいと思うし、嫌われたら悲しいとは思うけれど、わたしは自分を曲げてまで、人との関係を変えたいとはどうしても思えない。

良ちゃんはわたしが守るの。
たった一人のかわいい家族。
わたしの弟。
だから、わたしはそれをわかってくれる人とでなければ、きっと恋も出来ないわね。

そこまで考えて、思わずくすくすと声をあげて笑ってしまった。

恋、だなんて。わたしにはもっとも縁遠い話かも知れないわ。

夢見ないわけじゃない。
いつか誰かと、と願わないわけじゃない。

それなのに、なぜか恋する自分を想像しようとすると、心の奥でなにかが痛むような気がしてならない。
ただ穏やかな甘い夢を、胸いっぱいに広げることが出来ない。

なにかを失う絶望感が、頭の端をよぎってしまう。
きっと、わたしは恋に向いていないのね。

いい大人にもなって、経験もないくせに、そんなことを自分に言い聞かせて不安を紛らわそうとする。

織姫と彦星みたいに、たった一人の誰かをひたすら想うことが出来たら素敵だとは思うけれど、そんな人がわたしにもいるのかしら。
何度出会っても、恋に落ちるような人。
なにがあっても、離れても、焦がれてしまうような人。

もしそんな人に出会えたら。

「考えてもしょうがないわね。わたしには良ちゃんがいるんだから、今でも十分幸せだと思わなくちゃ」

いつの間にか、ぼんやりとレシピ・ノートを抱えたまま座り込んでしまっていた。
そろそろ片づけを終えて、眠らないと。

「あ、でも」

このレシピ、完成させようと思っていたんだった。

どこの誰のためのものかも、どうして自分がこれを作っているのかもわからないのに、わたしはこの「桜井くん」という人のためらしいレシピを、捨てることが出来なかった。

それどころか、どうしても完成させて、飲んでもらいたいとまで考えている。
自分でも、なにをやっているのか疑問に思うけれど、どうしてもそのまま放り出してしまったら後悔するような気がしてならないのだ。

弟のなにか言いたげの顔が気になったのも、理由のひとつだったけれど、それだけじゃない。
なんとなく、このレシピを完成させることが、わたし自身のなにかに繋がるような……というより、完成させて、飲んでもらいたくて仕方がないような、自分でもよくわからない直感のようなものが頭に響くのだ。

この「桜井くん」は、喜んでくれるだろうか。
おいしい、と笑ってくれるだろうか。
それともやり直しだと拗ねるだろうか。

いけない、いけない。
知らない人のことまで、「拗ねる」だなんて子供扱いしてしまった。

すっかり姉が染み付いてしまっているのかも知れない。
良ちゃんは滅多に怒ったり、拗ねたりしない、聞き分けのいい子だったはずなのだけれど。

「でも、本当にどんな人なのかしらね」

会ったらすぐにわかるのかしら。
いつ会えるのかしら。
本当に会えるのかしら。

さっきまでの不安感が、嘘のように消えていく。
この「桜井くん」のことを想像すると、なんだか楽しくなってきてしまうのだ。

今はまだ会えない、謎の人。
こうして、わたしにほんのりとしたあたたかさをくれる人。
ちょっとしたミステリーみたいな存在。

これが運命の始まりだったら、七夕伝説よりもロマンティックかも知れないわね。

そんなことを考えて、こらえきれずに、ふふっと笑った。