余波
閃の様子がおかしいということに気付いたのは、いつのことだったか。
何というか、機嫌が悪いというか落ち込んでいるというか、その両方の気がする。
改めて考えてみると、それは扇一郎との決戦に臨んで、果たせずかわりに扇六郎を保護して戻ってきた、その頃からだと思う。
もっとも、正守も無傷ではなかったし、閃は任務で夜行を出ているしでじっくり顔をあわせるなんてことは、まして床をともにするなんてことはまったくなかった訳だが――。
夕方、珍しく閃の姿を見かけた――屋敷の出口で。秀と一緒に、屋敷を出るところだったらしい。
「閃、それに秀」
「あっ頭領」
ぴしっと背筋を伸ばす秀。閃も驚いた顔をしたが、すぐに真顔に戻ると目を少し伏せながら
「こんばんは」
と呟く。――目を合わせてはくれない。
「二人とも、これから任務か?」
「はいっ。今日は箱田君の荷物を取りに来ただけなので、烏森支部に戻って仮眠したら、今夜も烏森の監視に当たります」
「……っス」
はきはきとした秀の受け答えに反して閃はそっけない。秀もそれに気付いたらしく閃の脇腹を肘打ちするが、閃は不機嫌そうに口を尖らせて秀を睨み付けただけだった。この二人、たしか秀のほうが年上だったはずだと正守も苦笑する。
「閃」
「……はい」
正守が埒があかないと閃の名を呼ぶと、しぶしぶといった感じで上目遣いに目をあわせてきた。やはりいつもほどの素直さはない。
「秀、お前先に戻ってろ。閃、お前には話がある、ついてこい」
「わかりました」
「……はい、っス」
笑顔で正守に返した秀と反して、閃はあきらかにしぶしぶといった形で秀と別れ、正守のうしろをついて歩き出した。
自室として使っている部屋に閃を招き入れて膝をつきあわせるようにして座布団に座らせると、閃は緊張した面持ちで正座して俯いている。
「閃」
「……はい」
「俺の目を見ろ」
「……」
しばらく逡巡した閃だったが、観念したとばかりに小さく息を吐くと正守を見上げてきた。その瞳には一言では言い表せない複雑な光が浮かんでいた。
精神感応能力者なら、閃の考えも読めるのかもしれないが、あいにく正守にそんな能力はないから、口で伝え耳で聞き取る他ない。
「最近、何を考えている」
「……」
まただんまりだ。正守もつい溜息を吐く。
「思うところがあるなら、言え」
「……俺……聞いたんです、良守から」
思いがけず弟の名を口にされて正守は目を丸くする。烏森の任務につかせたのは正守だし、良守とはクラスも一緒だというから、不思議なところはないが。
「聞いたって、何を」
「阿久尼の屋敷で、頭領とはちあわせたって」
「……ああ」
扇一郎との戦いの後のことだ。阿久尼の屋敷に戻った正守が屋敷の中で角を曲がると、ばったりと弟の良守といきあった。正直最も会いたくないタイミングに会ってしまった。事実、その後口論のようになってしまった訳だったが。
「そんで、頭領が、血のにおいがしてたって」
「それは……」
自分の血と扇兄弟――主に六郎――の血とで黒い装束は重く濡れていた。
「そこまでやったってことは、使ったんですよね」
閃の目は真っ直ぐ正守を見ている。先刻までの拗ねた様子はまるでなく、否、それの反動のように心配そうな光を浮かべている。
「使ったというと?」
「……絶界、です」
「まあ、使ったな」
実際自分の最大の武器は絶界である。それでも苦戦を余技なくされたが、間違いなく使った。それがどうしたというのだろう。
「俺、あの技……嫌いです」
絞り出すようにそう言うと閃は目線を外して唇を噛んで黙ってしまった。よく見ると、膝の上の手が微かに震えている。
「どうしてだ?」
「頭領が……世界を憎んでる、そんな気がして」
吃驚した。
たしかに絶界は、すべてを拒絶する心が生み出すものだ。他者を感知する能力に長けている閃ならその程度のことは分かってしまうのかもしれない。しかし面と向かって嫌だと言われる時が来るとは思っていなかった。
「威力はすごいと思うけど、圧倒的なのもわかるけど……でもなんとなく、想像するだけでも嫌で…いつか頭領のほうが呑まれてしまったらどうしようって――」
それで最近様子がおかしかったという事か。
正守は膝立ちになって閃の肩に手を廻すと、そのまま自らの胸へと抱き寄せた。
「頭領?」
「驚いたよ。そんな風に見えてたなんて」
「思い過ごしなら、いいんです。でも頭領に直接意見する訳にもいかないし」
「それはまあ、そうだな」
「……生意気言って、すみませんでした」
「いいよ、怒ってないし、お前の言ってること、あながち間違いじゃないから」
これ以上会話を続けると、弱い自分が顔を出しそうで。正守は閃の両頬を挟んで自分に向けさせると、形の良い唇に口付けした。
「気を付ける。呑まれないように」
「……はい」
触れ合うだけの口付けの後に、唇と唇が触れる寸前の距離で囁くと、納得したというふうに、閃が一言だけ告げる。と身体から力が抜けた。正守にもたれるようにして身を寄せてくる。
「閃?」
「あ、安心したら、なんか……」
閃の手が正守の着物の胸を握りこんだ。緩く、どこか熱にうかされたような仕草にどきりとする。
「――安心したら、どうした?」
「っ……」
試しにからかう口調で訊いてみた。自分と同じように閃もまた呼吸が苦しくなっているのか。身体が熱くなっているのか。
閃は真っ赤になる。けれど瞳はそらさない。ひたむきでどこか切羽詰まった光に、自分と同じように心と体、両方の変化が閃にも現れていることを知る。
「夜までにはお前を烏森に帰すつもりだったんだけどな」
もう一度、閃の唇に自分の唇を押しつけると、閃のほうから正守の唇を舌で舐めてきた。その舌を絡め取るように舌を動かすと、閃が全身で正守にしがみついてくる。
いいのか、と聞きたいのを我慢して正守が閃の背中を撫でると、正守の腕の中で、閃は鼻にかかった声で甘く啼いた。
「頭、領……」
クラリとくるような甘ったるい声に、正守もまた閃を抱く腕を強めた。
今日はもう離さないとでも言いたげに。
<終>