魔が差す時間
諦めきった笑顔で先生は言った。いつも僕らを大切に大切に箱にしまいたがる先生にしてはやけに突き放した、世間一般の大人と似たような台詞だった。だから思わずその真意を探るべく必死になって先生の瞳を見上げたけれど、その淀んだ色の中には諦めしか見つけられなくてもしかして言葉そのままの意味なのかと思いかける。
「どういう意味ですか」
「おや、勘の良い君にしては珍しい質問だね」
「いつも優しい先生にしては意地悪な答えですね」
僕はちょっと苛々していた。なんだか先生が先生でない様な気がしていて、怖かったのかもしれなかった。言い返した僕にも、怒らせちゃったかいごめんねと泣きそうな顔でいつものように謝ってくることも無い先生。穏やかな笑顔と見下すような視線を崩さないままにこちらを見つめてくる。
「そのままの意味。アシタバ君はまだ子供だから。だからそうやって僕の事を知りたがる。興味本位、好奇心と同意だよ」
「先生がそんなに『子供』を軽視しているとは思いませんでした」
「君がそんなに短気だとも思わなかったけれど…、今日は随分と喰ってかかるね」
夕日が差し込む保健室、外からは部活に勤しむ生徒たちの声が時折響く。こんなにもありふれた平和の中に身を置く教師と生徒なのに、僕らが交わす言葉は厭に棘が多い。
只一言、先生の隠しごとを知りたいんですと口にしただけ―――それだけで、僕たちの会話は冷え切ってしまった。
「日が、悪いんじゃないですか。先生も、僕も」
「…日?そうかな、時間じゃないかな。もう逢魔が時だ」
もう直に日も落ちるから早く帰りなさい、そう言って会話を切り上げようとする先生は見た事も無い人間だった。彼の中に巣くう悪魔が、彼の温度を丸ごと攫って言った様な冷たさで先生は保健室のドアに顔を向ける。
こうやって先生は人を、僕を遠ざける。どうにも僕は先生との距離の取り方は下手なようだった。いつも近づきすぎて、近づいた分の倍は距離を取られてしまう。
「これからもずっと、ひとりで抱えるつもりなんですか」
「…さあ、暗くなる前に」
がらりとドアが開く残酷な音がする。先生からは濃く長い影が伸びていて、薄暗い廊下に化物みたいに蠢いた。
僕は下を向く。泣きそうだった。みっともない、何で泣きそうになってしまうのか見当もつかない。期待でも、していたんだろうか―――先生は僕に少しは、と。
「しつれいしました」
退出の挨拶はなんだか往生際の悪い謝罪のように響いて、更に僕の瞳は潤んでしまう。
「うん、さようなら。気をつけてね」
さっきよりも大きな音でドアが閉まる。僕はほっと息を吐いた。体中の血液が緩やかに廻っていくように、冷えた身体が少しずつ温まっていくような気がしていた。
薄暗い廊下、陽のあたる保健室より幾分温度は低いはずなのに。
「だって」
いつの間にか日は完全に沈んでいた。あの少年が帰ってからどのくらいの時間がたっているのか分からない。暗くなる前に無事家に着いただろうか。
「だって―――、こうでもしないと止められそうにないんだ」
ごめんね、子供で。
呟きは少年に届くはずもない。明かりの無い薄暗い保健室にただ響くだけだった。