ピンクライオン
汚れたスニーカーの爪先にかけた指先。
「東條、まだそうやってんの」
「……」
「じゃ、質問変える。なんでここにいるの?」
「……わかんない」
蹲っている東條は白いパーカーを着ている。フードつきでちょっと大きいサイズのもの。佐野に貸してもらったものだ。
佐野は普段と変わらない、長袖の薄手のシャツにジーンズを着て、少し心配しているような突き放しているような顔で、東條のすぐそばにしゃがんでいる。
「何やってんの?」
「……わかんない……」
東條の手は道端に転がっていたチョーク(何故かピンクの)を握っている。地面をひっかく。アスファルトの灰色の地面は潰されて、その棒の先端の軌跡をなぞった。
「何描いてるの?」
「佐野くんは わからないんじゃないかな」
「なにそれ。なんか腹たつなー」
「うん」
「うんとか言って東條全然悪いとか思ってないよね」
チョークの切っ先が地面に何かのかたちを描いている。それは絵のようでもあったし、字のようでもあった。ただ東條は、一心不乱といってもいいくらい懸命にそれを描いている(相変わらず顔は無表情のままだったけれど)。
塗りつぶされていく灰色の地面。
「……あーのさあ」
「なに」
振り向くと、佐野がちょっと困った顔で手を伸ばしてきていた。
「え?」
わからなくてくりかえすと、彼はためいきをついて東條の頬をぬぐった。
「普通自分で拭くなりなんなりするもんじゃない?」
ずっと動きを止めない東條の黒目がちのまるい眼から、時折ぱたぱたと涙が零れて落ちていく。それが地面に落ちると、一瞬震えてから砕けるように滲んで消えた。東條の描いている絵だか字だかは、その涙で少しずつ滲んで見えなくなる。
「なんで泣くの?東條」
「わかんない。眼が痛かったから」
「ん?」
「眼が いたいんだ」
滲んだ絵に眼をやって、
「それじゃいつまでたってもできあがらないんじゃないの」、
と佐野が言った。
「うん」
東條は瞬きをくりかえして頷きながら、それでも手を止めない。その拍子にまたぱたぱたと涙がこぼれた。
硝子球のような滴が、
東條の着てるパーカーだとか、黒い髪のかかる首筋だとか、少しかがみ気味にした柔らかい背骨だとかを少しも映さないで、ただ透明なまま東條の折れた膝や、みじかいチョークを握っている指に何度か、跳ねた。
強い陽射しを反射して、硝子球がきらきら光る。地面に落ちて砕かれる前の、たった一瞬だけ。
東條の描いた絵の中にある、背の高い人(らしきもの)の輪郭。
チョークを持たない方の指先で、彼はそっと撫でるように触れる。
「あのさぁ、触ったらまた消えちゃうよー?」
「ああ。そうかもね」
はたと気づいたように東條は言って、それでも触る手を止めなかった。
彼の掌の下で、それは砂が崩れるように、少しずつ形を保てなくなってゆく。
「せん せ い」
「え?」
「ううん、なんでもない」
(――ぼくは)
(えいゆうに)
じりじりとアスファルトが焦げていく。その音は聞えるのに、東條にはその温度がわからない。熱は確かにそこにあって皮膚を灼いているのに、それが熱いということがわからない。
あふれるほどの陽射しに満たされているのに、その光がつくるコントラストの鮮やかさで視界が歪むほどなのに、それがまぶしいということがわからない。体は反応しているのに、感覚がそれについていっていない。今が昼間なのかどうかさえ、東條にはわからない。
眼を上げれば、アスファルトの道は何処までも続いている。先は見えない。視界が滲む。
乾いた眼が、水分を欲して悲鳴をあげている。
佐野は視線を落とす。しゃがみこんだまま、東條の手はいつのまにか止まっていた。
その足元に広がっている、ぐしゃぐしゃにされた絵のあと。
うつむいた東條の額に、切りっぱなしの黒い髪がかかって表情を消していた。
「ねえ」
佐野は東條の横顔を見やる。頑なに握り締められた、手の中のチョーク。
「……そろそろ帰らない? 東條」
ピンク色に塗りつぶされた灰色の地面が光を反射するから、余計に眼がくらんでしまう。目が痛い。世界そのものが痛むみたいに。東條は目を押し潰すように、手の甲でこする。
佐野が東條のゆびさきをきゅ、と握った。不器用に。まるで小さい子同士の、友達みたいに。
東條の眼からぱたぱたと涙が零れて、ピンク色のチョークの上で砕けた。
end.
(初出 2003.03.25
2010.01.23 加筆)