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そらいひる
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novelistID. 22276
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交わらずとも、

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交わらずとも、

「どうして?」

慶次はぽつりと零した。切なそうに眉を絞りながら目の前の男を注視した。
呼びかけられた男は格子の向こう側できちんと座した侭動かない。良く出来た置物の様に其処に居続けている。慶次が言葉を発しようと手を伸ばそうと、例え此処で息絶えようとも男は動かないだろう。自分が投げ掛けた全てのものは何処にも引っ掛らずに暗がりの底に落ちていく。それは涸れ井戸に小石を投げ込む様な果ての無い。けれども慶次は諦めようとしなかった。

男は座敷牢の中、座した侭動かない。慶次が門番を打ち倒し現れた時も動かなかった。凝っと俯けた横顔は行灯に照らされ、揺らめく炎が頬に影を落とす。ちらちらと影が揺れる度に表情が変わり、蝋の様な肌に命を与えている風に見えた。男は生身の人である筈なのに生きた匂いがしない。慶次はそれが酷く悲しかった。

松永さん。と慶次は呼ばわった。それが男の名だった。男の名は悪徳と共に有った。其の名を知る誰もが男を怖れ、嫌悪し、憎み、時に崇拝した。主殺しの将軍殺し、東大寺を焼き払った戦国の梟雄。そう呼ばわれる男は薄い暗がりに座した侭動かない。慶次は名は名に過ぎないのだと男を見て知った。名は他と己とを識別する符号にしか過ぎず、本質を当てるに足り得ない。幾つもの名を持つ男は誰でも無かった。

伽藍、虚。松永久秀と言う名の肉体に宿っているのは虚無だけだ。其れは暗がりからするすると這い出して人を捕らえて食い尽くす。食い尽くしても虚無は其れを取り込まない。こころを喰われて放り出されて独りになる。独りになって途方に暮れる。そうして再び歩き出す時、もうかつての自分は取り戻せない。慶次の親友がそうであったように。

始め慶次は男を憎んだ。親友を呑みこみ作り変えた男を憎んだ。けれども男が当て所ない厖大な虚無であると知った。その時慶次は何もかも諦める様に男を許し、そして憐れに思った。男は独りだ、本当の本当の独りっきりだ。それを悲しいとも淋しいとも思えぬ心が哀しかった。その様が寂しかった。こんなにも満たされている世界で只の独りきり。どうしてみんなこの人を放っておけるのだろうと慶次は思った。

慶次は抱き締めてやりたかった。空虚の心を孤独ごと抱き締めてやりたかった。あなただって一人じゃないと伝えたかった。今もそうだ。格子を突き破って隔絶されている男を檻から引き摺りだして、今度はこの腕に閉じ込めたかった。

松永さん。もう一度慶次は呼びかけた。男はぴくりともしない。慶次は言葉に力を込めた。

「どうして?松永さん、どうして此処から出ようとしないの。俺はあなたを迎えに来たけれど、あなたにとってそんなの関係無いの解ってるよ。だけどあなたは出られる筈じゃないか。出ようと思ったら、簡単にこんな檻ぶっ壊せる筈じゃないか。なのに、なのにどうしてなの」

男は動かない。慶次の言葉など届いていないのか。否、慶次が此処に居る事すら届いてないのかもしれない。慶次は格子に触れた。黒く艶やかな檻は暗がりと溶け合って境目を無くしている。それでも男との隔たりは確かに在って、慶次はそれを踏み越えられない。慶次は格子を掴んだ、あらん限りの力を込めてとうとう叫んだ。

「分かってるんだ!あなたが正しいって、どうしようもなく分かってる。人は独りぼっちなんだって、どこまでも行っても独りきりでしかないんだって。そんなの分かってるよ」

それでも、慶次は息を吸い込んだ。届かないとは知っている。どんなに訴えても男には届かないと知っている。だからこそ慶次は叫ぶ。届かなくても良い、此処に居ると伝えるだけで良い。人は永久に一つになれない。決して寄り添えない。けれども、だからこそ、通じ合う事は出来るのだ。互いに繋がり合う事ができるのだ。だから、だから生きていられる。慶次は男と繋がりたかった。どんなに遠くても、か細いもので繋がっていたい。それで、それだけで。

「あなたは一人じゃないのに。」

ありたけを込めた言葉の最後は掠れた。どうしようも無く悲しくて寂しくて、慶次は咽喉を詰まらせた。座敷牢から深く息を吐く気配がした。慶次は思わず目を瞠る。男がゆるりと頭を廻らせて慶次の方を向いた。全てを捕らえて何物も捉えない目が、収縮して慶次のみに注いでいた。

「松永さ、」
「卿は莫迦だな」

発せられた男の声は慶次の奥底を揺さ振った。慶次の目に涙が溢れてくる。男はそっと手を伸ばすと慶次の目元に触れた。白く整った指先は冷えていて、流れ落ちた慶次の涙で僅かに温められた。ふうと息を吐きながら男が囁く。

「莫迦な――嗚呼、本当に莫迦な男だ」

男はただ慶次に触れていた。其処に在るものとして、確かに慶次に触れていた。慶次はその手を取ると体温を分かち合う様に、頬に強く押し当てた。

届かないとは知っている。どんなに訴えても届かないと知っている。慶次の声が男の芯を揺さ振れなくても、慶次の存在が残ればいい。あなたを抱き締めたいと、あなたと繋がっていたいと望んだ人間がいると知って貰えれば、それで。それだけで。
作品名:交わらずとも、 作家名:そらいひる